「すでに与えられている神さまの恵みを見えるようになりたいのです」
2015月10月25日 年間第30主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
先生、目が見えるようになりたいのです
マルコ10:46~52
今日の福音に「道端に座っていた」「なお道を進まれるイエスに従った」とありますが、その「道」という言葉には、原文では同じ「ホドス」という単語が使われています。それに定冠詞がついているので「その道」、つまり「イエスの道」です。
福音書の中には、「イエスの道」のまわりで起こったさまざまな出来事が描かれています。それは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺されて三日の後に復活する
この「道」(ホドス)という単語は、マルコの福音書の中で重要な意味を持って後半にぽつりぽつりと出てきます。
「イエスが旅に出ようとされると」という箇所(10:17)の「旅」にも、「道」という言葉が使われています。イエスさまがご自分の「道」に出ようとされると、ある人が走り寄って尋ねます。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(同)
イエスさまは言われました。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。……それから、わたしに従いなさい」(21節)
しかし、その人はその言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました。その人は、持っていたたくさんの財産がひっかかって、イエスさまの道の中に「ぽん」と入ることができなかったのです。
でもバルティマイは、持っている財産の全部を捨て、イエスさまの「道」の中に飛び込んだのです。彼が持っている財産のすべては上着でした。
今日の福音は先週の福音と対応しています。なぜなら、今日の福音でイエスさまがバルティマイに尋ねたのとまったく同じ問いを、ヤコブとヨハネにもなさっているからです。
「何をしてほしいのか」(36、51節)。これがイエスさまの問いです。ヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と答えました。しかし、それに対してイエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われます(37~38節)。
一方、今日の福音でイエスさまはバルティマイに同じことを尋ね、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっています(52節)。はっきりとした対比が描かれています。
目が見えていた弟子たちは、本当に何を求めるべきか見えていなかったけれど、目の見えないバルティマイは、本当に求めるべきものが見えていたのです。
バルティマイは「物乞い」でした。人からの憐れみで生きていた人です。そして、神に憐れみを求めました。その叫びは聞かれ、イエスさまに呼ばれました。バルティマイの願いは「目が見えるようになりたい」ということでした。
私たちはミサの始めに「主よ、憐れみたまえ」、「キリスト、憐れみたまえ」といつも願っています。これは何を願っているのでしょうか。神さまに「憐れんでください」と言うことは、具体的にどういう意味なのでしょうか。
神さまは、そのすべての憐れみで私たち一人ひとりと一緒にいてくださるお方です。ご自分の永遠のいのちをすでに私たちに注いでおられるのです。
それ以上、何もいただくことができないまでに、私たちはもう全部をいただいています。土の塵(ちり)にすぎない私たちに、神さまはご自分の永遠のいのちを吹き入れてくださっています。私たちはそれ以上何も望むべくもありません。それなのに、私たちは何を「憐れみたまえ」と願うのでしょうか。
私は思います。私たちが「憐れみたまえ」と願う願いの中身とは、「神さまが憐れみによってすべてをお与えになっているその真実が見えない私たちが見えるようになること」です。それこそ、私たちが求めるべきものではないでしょうか。
神さまは共におられるお方です。そのことが私たちには見えていません。見えていないことに気づいて、「目が見えるようになりたいのです」という願いを、神さまに、イエスさまに願うならば、私たちはそれをかなえていただけます。
私たちも今日、目が見えないことに気づき、「目が見えるようになりたいのです」と願わせていただくならば、見えるようにしていただけます。
自分が気に入らない人の中に神さまのいのちがあることを見えない私を憐れんでください。自分を攻撃してくるあの人の中に神さまのいのちがあることを見えない私を憐れんでください。その人を見るとついいじめ、馬鹿にしてしまいたくなる人の中に神さまのいのちがあることを見えない私を憐れんでください。つい小言を言って叱ってしまうあの人の中に神さまのいのちがあることを見えない私を憐れんでください。
そう私たちは祈らなければならないのだと思います。ご一緒に祈り、この感謝の祭儀をおささげしましょう。