イエスさまは「一緒にいる」と言ってほしい
2015年8月23日 年間第21主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか
ヨハネ6章60~69節
説 教
今日の福音の冒頭で弟子たちは、イエスさまの話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました(ヨハネ6:60)。
年間第17主日から第21主日まで、5週間にわたってヨハネの6章が読まれてきました。そして、今日がその最後の箇所になります。
今までの話の全部を受けて、弟子たちが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、「イエスと共に歩まなくなった」のです(66節)。イエスさまはどんな話をされたのでしょうか。
短くまとめて言うと、こういうことです。「わたしは天から降って来たパンである。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(51、56節)。
これは、私たちがしているミサのことです。「これは私の体、食べなさい」、「これは私の血、飲みなさい」と言われ、パンを食べ、イエスの血を飲む。その時、イエスが私たち一人ひとりの中に生き、また私たちもそのお方と一緒の向きで生きるいのちになるのです。
一方、シモン・ペトロは言いました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。聖体拝領の前に私たちが毎回繰り返している信仰告白の言葉は、この箇所からとられています。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう」。それは「あなたのところに行きます」という意味です。
ミサの中で神父がイエスさま役をして、こう言います。「みな、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である」。そして、聖体拝領の時に司祭は「キリストのおん体」と言って、そのパンを配っていきます。聖体を受ける者は「アーメン」と言って食べます。
それを私たちは、「だれが、そんな話を聞いていられようか」と答えるのでしょうか。それとも、ペトロのように「わたしたちはだれのところへ行きましょうか」、「あなたのところに行きます」と答えるのでしょうか。私たちは今日、そのことを問われています。イエスさまは「一緒にいる」と言ってほしいと望まれているのです。
イエスさまは12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」とおっしゃっています(67節)。この言葉は「離れていってほしくない」という心が表れている表現なのだそうです。「どっちでもいいよ、自己責任で」とおっしゃっているのではないのです。「離れていってほしくない」。「一緒にいてほしい」。それがイエスさまのお心です。そのように問われています。
信仰をもってキリストの体であるパンを食べるならば、イエスさまご自身がいつも私たちの内にいてくださることを分からせていただきます。そして、私たちもそのお方と一緒にいるようになります。先週の福音でイエスさまがおっしゃっているとおりです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)。
私たちの内にイエスさまが一緒の向きで生きてくださるのです。そして、私たちもまたイエスさまの内に、イエスさまと一緒の向きで生きるいのちになります。
そうすると私たちは、イエスさまと一緒に、今日出会う人の中に神が共におられるという真実を見て生きるいのちになります。「ああ、そうか。あなたの内に神さまは一緒に生きてくださっているんだなあ」ということを見て生きるいのちになります。それがキリストの弟子になるということです。そのために私たちは今日もここに招かれています。
洗礼を受けておられないという方も、キリストを信じて一緒に生きる心を持ったその時、キリストは一緒の向きで生きるいのちになってくださいます。なってくださるというよりも、もうすでになってくださっていて、私たちがその真実に気づき、一緒に生きる者になってほしいとイエスさまは望んでおられるのだと思います。
私たちがキリストのおん体であるパンをいただいただけで、そのいのちのパンであるキリストと共に生きる者にならないならば、何のためにパンをいただくのか分からないということになってしまうでしょう。
ご聖体であるパンをいただくとき、「主よ、どうぞ私のうちでお働きください。私もあなたのうちで働かせてください」と願うなら、イエスさまはそのとおりにしてくださいます。
そして今日、このミサから出ていく先で、一人でも多くの人に、神さが共におられる真実を私たちが祈って、告げる者になっていきますように。信仰を表す共同体になっていきますように、ご一緒にお祈りをしたいと思います。