神さまが共におられる神秘(1)稲川圭三

共にいてくださることに気づいて生きる

2015年4月5日 復活の主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
イエスは死者の中から復活されることになっている
ヨハネ20章1-9節

説 教

今日は「復活の主日」を迎えています。

今日、読まれたのは空の墓の場面(ヨハネ20:1-9)です。どうして復活の主日なのに、イエスさまと出会った場面が読まれないのでしょうか。それは、復活という出来事に私たちが出会うのには、少しの時間がかかることだからではないかと思います。

「復活」とは、目に見えなくなったので、どこにいるか分からない、出会うことができないというものではありません。目に見えなくても共にいてくださるという「いのち」のありようになることです。今日、空の墓の出来事を通して、逆説的に、キリストがすべての人と一緒にいる「いのち」になっておられるという圧倒的な「存在」が示されています。

キリストは復活され、私たち一人ひとりと一緒にいる「いのち」となってくださっています。たとえ私たちがそれに気づかずにいても、キリストは共に生きてくださっています。

それは「エマオの弟子の物語」(ルカ24:13-35)によく示されています。エマオに向かう二人の弟子にイエスご自身が近づいて来て、一緒に歩かれたけれども、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。こうあるように、イエスさまは私たちと一緒に歩いてくださるお方です。一緒に歩くどころか、私たち一人ひとりの中にあって、共に生きてくださっているお方です。それなのに、それに気づいていないということが私たちにはたくさんあるかもしれません。

しかし、そのお方に「あ、あなたでしたか」と気づかせていただく。そして、そのお方と一緒の向きで歩んでいく者になるということを「復活の出会い」というのです。

「復活の出会い」「気づき」をいただく前は何の恵みもないのかというと、そうではありません。エマオの弟子がイエスだと分かったのは、イエスが夕食の時にパンを裂いて弟子に渡したその時です。その時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」のです(31節)。

しかし、「その姿は見えなくなった」とあります(同)。そして二人の弟子は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。つまり、私たちと共に歩いて聖書を説明してくださっているキリストは、気づかずに私たちの心を燃やしてくださっているということです。

キリストが共にいてくださることに気づいて、キリストと一緒に、人の悪いところではなく、神の「いのち」があることを見る時、私たちは「復活のキリスト」との出会いをいただきます。一緒の向きで生きる者になるからです。

私たちが人に意地悪をするのではなく、キリストと一緒にその人に親切をするならば、「復活のキリスト」と出会って生きることになります。私たちが出会う人の中に悪ではなく神のいのちを見出す時、私たちは「復活のキリスト」と共に生きる「いのち」となるのです。

そのように出会わせていただくのは、いつでしょうか。一人ひとりにその「時」があって、神さまのご計画の中でその時は満たしていただくのでしょう。どのような時に出会わせていただくのか、一人ひとり異なります。それは少しの時間がかかることかもしれません。それで今日、復活の主日に「空の墓」の箇所が読まれたのかもしれないと思いました。

キリストが復活されたということは、私たちも復活するということです。私たちも復活するとは、つまり、私たちも死を超えて人と共に生きる「いのち」であるということです。死で終わって、お墓に入れて過去の人にしてしまっていいようなものではなく、死を超えて神と人と一緒に生きる「いのち」ということです。

去年の3月、私の父が亡くなりました。91歳でした。父は終わりの2年間くらいは脳の病気があって、何回か手術をして入退院を繰り返し、家族のことも誰が誰だか分からなくなるような時期もありました。生活の基本的なことを、人の世話にならなければできないような状況になっていました。それでも、何に対しても誠実であるという父らしさは残っていました。

私の両親は、私が実家に顔を出して帰る時には、必ず玄関のところまで出て手を振って見送りをしてくれました。しばらく歩いていくのですが、私が見えなくなるまで、遠くから手を振ってくれていました。昔からそうでした。

母は普通に片手を挙げて手を振るのですが、父はどういうわけか両手で手を振ったりするんです。普通、両手を上げて手を振るようなことは、あんまりないような気がします。誰かに万歳をするとか、そういうことでない限り、なかなか人に向かって両手は挙げないように思うのですが、父は時々、そのようにしていました。そのような姿を見るたびにいつも、「ああ、あと何回、このような姿を見ることができるのかなあ」と思いながら帰っていました。

父と母は結婚して以来、ずっと一緒にいたので、父が亡くなってしまったら母はいったいどうなるのだろうと、ずいぶん兄弟も心配していました。しかし、母は父が亡くなってからむしろ元気になったように思います。もちろん本人は悲しんでいますが、家族の目にはそのように見えます。

父が亡くなってからも、実家に顔を出すと、母は今まで同様、玄関まで出てきて手を振ってくれるのですが、この間、母はどういうわけか、両手を挙げて手を振っていました。その時、私は、「ああ、父が母と一緒にいてくれるのだ」と思いました。

最近、今言ったことをすぐ忘れてしまうようになった母は、たぶん自分が両手を挙げていることを意識していないでしょうし、覚えてもいないと思います。でも、私は父が母の中に一緒にいて生きているんだなあと理解しました。

私は「復活」を信じます。キリストが私たち一人ひとりの中に生きてくださっていることを信じます。そしてそれは、私たちの愛する人が私たちの中に一緒に生きてくれていると信じることと、まったく切り離すことができません。それはただ一つのことです。

私たちの中で生きているたくさんの愛する人たちは、たとえ私たちが気づかなくても、エマオの弟子がそうであったように、私たちの心を燃やし、励ましてくれていると思います。そのことに「そうか」と気づくならば、今度はその「いのち」と一緒に、積極的にそのことを人にもしていく「いのち」になっていくのではないでしょうか。

今日、人を愛するキリストが私たち一人ひとりと一緒にいてくださいます。「そうだ」と気づいて出会うならば、そのお方と一緒の顔の向きで生きる「いのち」になります。そして、その方と共に、人に意地悪ではなく親切をするように、人の悪いところではなく、その人の中に神の子の「いのち」があることを見るように、人に冷たくするのではなく温かくもてなすように、私たちもするようになっていきます。

今日、このあと洗礼式になります。洗礼を受ける方のためにお祈りください。また、洗礼を受けておられる方は、自分の受けた洗礼の恵みを思い起こす時としてください。いつかはご自分も洗礼をとお考えになっておられるみなさんは、その時の恵みを思って、どうぞご一緒にお祈りください。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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