聖書事業懇談会が4月10日、大阪クリスチャンセンター(大阪市中央区)のOCCホールで開かれた。そこで、12月刊行予定の「聖書協会共同訳」についての講演を、翻訳者・編集委員である飯謙(いい・けん)氏(神戸女学院大学総合文化学科教授)が行った。その内容を連載でお届けする。
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(3)出エジプト記3章14節(エヘイェ・アシェル・エへイェ)
最後に、将来この新翻訳を代表する訳文となる可能性のある出エジプト記のテクストに触れておきたいと思います。
モーセがホレブ山のふもとで神と対面し、民をエジプトから導き出すようにとの使命を与えられる重要な箇所です。また、神の存在を語る箇所としても、しばしばその解釈が議論されてきたテクストでもあります。
この場面でモーセは神に「名」を問います。神はモーセに「エヘイェ・アシェル・エへイェ」(出エジプト3:14)と答えました。これは、最初の原典からの英訳聖書として引き合いに出される King James Version(欽定訳)では「I am that I am」と訳されました。ほぼ直訳といえます。
ヘブル語「エヘイェ」は、動詞「ハーヤー」の一人称単数未完了形ですので、「I am」に近い。これは第3語でも繰り返されます。そして、第2語は関係詞「アシェル」ですので、「that」が当てはまります。
そういうことで、「I am that I am」は後の英訳にも影響を与えました。日本語に訳される際も、「我は有(あり)て在(あ)る者なり」(文語訳)、「わたしは、有って有る者」(口語訳)、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳)という具合に、英訳が基本的に踏襲されてきました。「新共同訳」の場合、関係詞「アシェル」を強調句と解したのだと思われます。
ここから、神は「存在の根源」と説明されました。神は、原初から存在(ハーヤー)するところの存在(ハーヤー)なのだ、と。ヘブライズムから教会教父まで幅広く研究した有賀鐵太郎(ありが・てつたろう、1899-1977)は、「ハーヤー」という動詞に着目し、ギリシア思想の存在論(オントロギア)とはまったく異なるハヤトロギアとして、旧約的な神存在の問題の議論を試みました。
しかし、出エジプト記の文脈を丁寧に追うと、「エヘイェ」は直前の3章12節、「私はあなたと共にいる」で用いられています。それは、神からの使命委託に疑念を懐(いだ)くモーセに向けられた、神からの約束を示す言葉です。
「私はあなたと共にいる」(エヘイェ・イムマーク)は、逐語的に訳すと「私はいる・あなたと共に」です。「イムマーク」は、「共に」を意味する前置詞「イム」に「あなた」を指す語尾が接続した形態です。そして、出エジプト記で「エヘイェ」が使われる箇所は、3章12節と14節以外では、隣接する4章12、15節のみですが、いずれも前置詞「イム」と併用されています。つまり、「エヘイェ」は基本的に「イム」との併用を連想させる用語であると感じられます。
そこで、新翻訳で出エジプト記3章14節は「私はいる、という者である」と訳されています。当然のことながら、この「私はいる」は、「私は(あなたと共に)いる」を含意します。聖書で証しされる神は、目の前の椅子(いす)や机のような実在物と同じ形式で証明される方ではありません。私たちが向かい合う人と、受け入れ合い、尊敬し合い、互いに愛し合う中で、すなわち「(神が)共にいる」現実において出会うことの許される方です。
「コロンブスの卵」を引き合いに出すのもはばかられますが、なぜこれまでの聖書翻訳がこのような素朴な文脈に気づかなかったのか、少々不思議な気もしました。これも、石川立(いしかわ・りつ)先生(同志社大学神学部教授)のお言葉を拝借するならば、「聖書を耕す」恵みとして示された収穫であると思えます。(明日に続く)