金子晴勇 著 キリスト教思想史の例話集Ⅳ(阿部仲麻呂)

人間の生々しい現実を端正な言葉でみずみずしくも整然と物語る
〈評者〉阿部仲麻呂


キリスト教思想史の例話集Ⅳ 愛のかたち
金子晴勇著
新書判・264頁・定価1540円・ヨベル

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 本書を手にしたときに、「ああ、40年前にこの本を手にしていたら」と思わず溜息が出た。異性への激しき愛を治められぬ我が身ゆえに愛を巡って随分ともがき、のたうちまわったからである。美しき者への愛を決然と断ち切り厳しい道に身を投じた経緯は凄まじいものだが、あれほどに苦悩しなくても済んだやもしれない。この40年においては福永武彦『愛の試み』(新潮社、1975年)に救われた。評者は過去に「日本の近現代文藝における『愛』の虚偽と可能性──伊藤整から島本理生に至る八人の作家を手がかりにして」(『女と男のドラマ──現代における愛の源泉』日本キリスト教団出版局、2013年、275−298頁所載)という論文を書いた際に伊藤整の評論の内容の限界に気づいたが、いま金子先生の新著を読み終えて力強い支えを得た。

 本書は金子晴勇先生が最期に手がけた作品である(享年94歳[1932−2026年])。つまり、彼の思想家としての人生の集大成が私たちの目の前に提示されている。本書を読むと、斬新な「解釈」が随所に顕れてくる。「エロース」(人間的な愛)と「アガぺー」(神の愛)とが決して切り離せないひと流れの愛の姿として連続しており、エロースがあるからアガぺーも実現され得る。同様の視座は教皇ベネディクト16世回勅『神は愛』(カトリック中央協議会、2006年)でも強調されたが、金子先生は参照していない。こうして異なる研究者が別々の場所で真理の探究に挺身したとしても誠実に歩めば共通した洞察を得ることがわかる。この根本視座は金子先生によって次のように説明されている。「色情は確かに罪悪の根源かも知れないが、人間としての愛情に潤いややわらか味を生み、色気や色つやの源泉になるばかりか、宗教的発心や藝術の原動力とも魅力ともなっている。ここに性の昇華が果たす大きな役割が見られる。だから性衝動は思春期の混乱だけを生みだすのではなく、性欲の拡散によって他の諸感覚に色をそえているし、情念や想像力にも作用し、精神を高揚させ、理想へ向かって飛翔させる機縁を与えている」(211頁)。
 実に、人間の本質を見事に言い当てた文章ではないだろうか。人間の愛情が洗練されることの極意が集約されている。たしかに金子先生の人生の歩みからにじみ出てくる洞察力が鍵語として効いている。「潤い」・「やわらか味」・「色気」・「色つや」・「宗教的発心」。これらの要素が人間の愛情を重層的で複雑な調和状態へと導く。金子先生の言葉づかいにはみずみずしさがある。東西の古典文献の数々の核心を鋭く整える構築の機微は九鬼周造による『「いき」の構造』の色つやを論じる硬質な文体とも呼応しつつもあたたかみも加わっているからだろうか。ともかく教皇ベネディクト16世も金子先生も実は聖書研究を土台とした真理の探究という信仰者の旅路を歩んだのであるから同じ洞察に至ったのだろう。参考までに教皇ベネディクト16世の文章も以下に引用する。「実際には、『エロース』と『アガぺー』──上昇する愛と下降する愛──を完全に切り離すことはできません。それぞれ異なる側面をもった二つの愛が、一つの愛の現実の内にふさわしい一致を見いだせば見いだすほど、愛そのものの真の本性がいっそう実現します」(『神は愛』7項)。
 それでは本書の構成を眺めよう。第1部では「愛のかたち」がまとめられている。各項目は以下のとおりである。「エロース物語」・「フィリア(友愛)物語」・「アガぺーとカリタス」・「カリタス」・「宮廷恋愛とトゥルバドゥール」・「ロマンティックな愛」・「自然主義的な愛」・「近・現代文学における愛の物語」・「東西の愛の質的な差異」。欧州から始まり日本の文学に至るまでの東西の思想史をたどる壮大な試みである。第2部では「邂逅の現象学と愛の成長」がまとめられている。各項目は以下のとおりである。「経験の諸次元について」・「愛の成長過程」。前者では、身体・心理・精神・人格という諸次元を通して人間の愛の本質を説明している。後者では、愛の邂逅(出会い)・愛の相互期・愛の献身期・恋愛・結婚・聖なる愛の意味を論じることで人間の成長の流れを描いている。両者は各自の成長を促すための知恵を授ける記述となっている。こうして本書を読むことで、まず「私」がどのような人間であり、どのように成長するのかが見えてくると同時に、「隣にいる他者」がどのような人間であり、どのように成長するのかも見えてくる。しかも過去から現在を経て未来へと続く人類共同体全体の交流の可能性も予測されてくる。
 金子先生の長所は、③人間の生々しい現実を端正な言葉でみずみずしくも整然と物語る姿勢である。①生々しい現実に溺れる人はその出来事を言語化できずに、ますますもがき苦しむ。②逆に現実の経験を何も積み重ねないままで物事を言語化するだけの人は人間らしさから遠ざかり、つまらぬ者になり下がる(生身の経験が欠如しているAI[人工知能]の作動状況と重なる)。金子先生は①と②を巧みに調和させて③の状況を創造する洞察力の名手である。評者は長らく①の状態に陥り、敢えて②の姿勢を自分に課したが、いまや金子先生の本を通して③を目指すことにした。チャーミングに生きることにしたのだ。
 実に、1986年、高等学校二年のときに、金子先生による『キリスト教思想史入門』(日本基督教団出版局、1983年)を読んでヨーロッパ文化の根源に想いを馳せた日々がいまや懐かしくよみがえる。走馬灯のように。あの頃から40年を経て、こうして、いま金子先生の最期の作品の「書評」を締め括る。ついぞ直接に邂逅することはなかったが丁寧な書簡を賜り、常にお互いの作品の熟読を通して学び逢えた。感慨深い40年の学びに感謝しつつも、信仰者として生きることの意義を改めて思い巡らす機会となった。心より御礼を申し上げつつ御冥福を祈念したい(金子晴勇先生、享年94歳[1932−2026年])。

出典:本のひろば.com

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