「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(ヨハネ福音書1章1~2節)
聖書は神のことばである、旧新約聖書66巻は原典において無誤・無謬であり、信仰と生活と教会の唯一にして絶対の規範である――地元の小さな福音派の教会で信仰を頂き、キリスト者学生会やペンテコステ派の友人らとの関わりの中で信仰を涵養されたぼくは、この福音主義/聖書信仰/霊感説ウンヌンについて、どうにもナイーヴで拭い難い、こだわりがある。
何が言いたいか。信仰と理性の運用態度について考えたいのだ。
まず「原典において」というが、原典が存在しない。現存する聖書の素は、すべて写本の断片である。基本的に遡れても写本の写本の写本くらいであろう。現存する聖書断片はパウロの真筆原本ではないのだ。また多くの牧師たちがBHSという旧約聖書の校訂本を原典として扱っている。しかし、これもまた多くの断片である。厳密な意味で、原典が存在するとはいえない。
例えばイザヤ書などでは、そもそも文法上の主語を確定できても話者が、神なのか民なのか預言者なのか、誰なのか分からない箇所がある。ユダヤ教に残る聖書の朗誦の伝統を調べても、それらを確定することはできない。
だから聖書信仰はダメだと言いたいわけではない。むしろ、どこまでも聖書を信じているからこそ、不明な事柄は不明なままであることが誠実だと考えている。
ぼくは人生の一時期をかけて、福音主義・福音派から遡(さかのぼ)り、プロテスタントであることを貫徹しようと試みた。クリスチャンの信仰的誠実さとして、他を批判する前に己を徹底的に批判した。結果、自分の信仰を解体してしまった。その後に残ったものは、相対的に様々に濃淡のあるキリスト教の諸伝統だった。その伝統を総覧して判断できる知性が自分にあるとも思えない。またプロテスタントであるには、ぼくには語学力も知性も足りなかった。ヘブライ語もギリシア語もラテン語も、ドイツ語もフランス語もスペイン語も、アラビア語、ナバテア語、ウガリット語、セム語族、シュメール語も自分には難しすぎた。否、そもそも英語でさえ、日本語でさえ怪しいのだ。四書五経の一行でさえ暗唱してない。ぼくは「聖書」と漢字で書けるだけの有象無象、ひとりの日本人キリスト教信者に過ぎない。
そう考えるようになると、聖書信仰は難しいなと思うようになった。少なくとも自分と学識や語学力において大差ないであろう牧師たちがいう「聖書には書いてある」というのも危ういなと感じてしまう。新共同訳であれ新改訳であれ、あらゆる翻訳は解釈である。「原典に忠実な」翻訳であったとしても、それを信頼することは、要するに、神への信頼ではなくて、翻訳委員会への信仰ではないのか。または翻訳聖書を用いてくださる聖霊の導きへの信仰か。
しかし、そうであるならば、いわゆる十全霊感/逐語霊感説と呼ばれる聖書の神的権威を担保する理路それ自体が不具合を持っている。なぜなら現存しない原典に言及し、解釈である翻訳に信頼するならば、それは思想霊感説との差異がないからだ。
それゆえ聖書信仰に基づいて説教することも難しいのではないか。むしろ「聖書に、このように書いてある」と前のめりに断言するのではなく、「不明な点は多いけれど、この箇所について、私は、このように解釈し、読解しました」というのが妥当な気がする。または、そもそもギリシア語もヘブライ語も読解する力がないのなら、説教者は「私は祈りの中で、この聖句に魂が震えたのです」と神のことばに共鳴する者として講壇に立つ方が良いのではないか。そんなことを考えている。
福音主義、聖書信仰、霊感説の云々。信仰と理性の何はともあれ、いまだにぼくは神のことばである聖書を信じている。
波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
はせ・くにお 1979年岡山県生まれ。博士(文学)。京都大学・非常勤講師。趣味:ネ ット、宗教の参与観察、読書。