AMラジオとインターネットで福音を届ける、キリスト教放送局日本FEBC。今年2022年で日本語放送開始70周年を迎えたその歩みは、リスナーの声を聴き続けてきた歩みでもあります。
「神などいない!」
コロナ禍やウクライナでの戦火の中だけでなく、それは、この私の内にも潜む思い。
その心の叫びに耳そばだてる時、初めて出会う。
あなたと、そして、その内に生きておられる主イエスと。
「悲しい死でも、神様は最善をなしてくださったのでしょうか。」
共にうつ病を抱えながらも、一緒にイエス様を仰いで生きてきた母を自死で亡くしてから7年を迎えました。この7年間、本当に厳しい日々でしたが、神様が今日まで生かしてくださいました。
私は弟も自死で亡くしています。神様はなぜこのような形で2人を召されたのか何度問うてもわかりません。こたえはありません。
生前、母や弟が大変な時、私はとても悩み、叫ぶように神様に祈っていました。その祈りを神様は聴いてくださったと思います。でも、私の願いとはかけ離れた出来事が起こり、悲しみ、苦しみは未だ消えません。
「私にはわからなくても、人間的に見れば悲しくても、神様は母にとって弟にとって最善をなしてくださった」。そう信じてもよいのでしょうか。
「イエス様がわかりません これが私の本心です。」
今、信仰の危機を感じています。チャーチホッパー(教会渡り鳥)なのです、私は。
完璧な教会を求めて、10以上の教会を回りました。どこかの教会に落ち着けばいいとわかっているのですが…。
キリスト教の本も読みまくっているのですが、いまいちピンときません。つまり、私はイエス様を知らないのです。イエス様を知りたいので、異端の集会にも集ってしまいました。幸い、もうやめましたが、自分でも何がやりたいのかわかりません。
イエス様がわかりません。これが私の本心です。
「人との関係を望む思い、それは主からのものと思うのですが…」
コロナで、私には友がいないという事に愕然としました。教会の皆さんと良き交わりがあると思っていましたが、そうでもなかった。深い哀しみの中で違う教会に行き始めました。
このコロナの中で孤独感は深まります。“イエス様”を見上げて…とよく言われましたが、人との関係を望むのは良くないのでしょうか。私は人付き合いが苦手だったのですが、イエス様と出会い、人とも関係を持ちたいと思いました。それは主からのものと思うのですが…。
「この地上で本当に心が満たされることはあるのでしょうか?」
私は最近、心の渇きを覚えています。信仰を持って長いですが、このような感覚になったことは今回だけではありません。心が満たされるためにどうしたら良いのか考えあぐね、色々な信仰書を読んでいます。けれど、やはりそれらは人が書いたものに過ぎず、心を満たすことができるのは、神様の言葉しかないと思いました。祈りについても、神様に自分の願いや求めを言うのではなく、むしろ、神様の声に耳を傾けることではないか、とも…。
ただ、思うのですが、人は地上に生きているうちに、自分が満足するほどに心が満たされるということはあるのでしょうか。それが、最近の疑問です。“満たされたい”という思いを消すことはできないので、この思いを持ち続けて生きるしかないだろうと思いますが、本当は、今すぐにでも神様に心を満たしていただけたら、と思います。信仰というのは、この地上で満足を与えられるものではなく、本当の満足は天にしかない。そういうことなのでしょうか。
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主イエスの御声。
それは、「上から下」でなく、「フラット」な分かち合いの中で、新しく響き合う。
この4月からの新番組『罪人の頭たちの聖書のことば』では、牧師と信徒が、教え・教えられるのでなく、与えられた思いを率直に分かち合う。そしてその響きが、互いの心に共鳴する。この交わりの中で、主イエスの御声が新しく聞こえてきます。
新番組『罪人の頭たちの聖書のことば』より
子に口づけせよ 主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて。(詩編2編12節)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書5章1~4節)
石垣 「イエスは口を開き、教えられた。」(マタイ5:2)と、「子に口づけせよ」(詩編2:12)とが、私の中では響き合っているんです。口づけというのは愛情表現ですよね。偉そうな教師としての言葉ではなくて、愛する子に向かって優しく問いかける親のような口調でイエスは教えられたんじゃないでしょうか。
長倉 そう思うと、この「心の貧しい人々は、幸い」って何なのでしょう?この言葉を愛の言葉として仰っているとしたら、一体…。
石垣 これは、「教え」として聞いてしまうと理解出来ないと思うんです。私のことで恐縮ですが、長男は18歳で自死で亡くなりました。今、自死については、防止のための法律が整えられ、講習会も開かれるようになりました。それは大切なことです。しかし私たちにとっての最大の悲しみは、私の大切な一つの命が自死という形で失われたという出来事に対する悲しみなのです。一般論や「対策」で埋め合わせられるようなものじゃなく、もっと切実なんです。私は、イエス様はそういう人々に向かって語っておられると思う。つまり「私」に向かって、貧しく悲しい現実の中にいる「私」に向かって、イエス様は口を開いておられる。
実は私は、日基教団の教師検定試験で論文を書き直す羽目になったことがあるんです。「愛をもって論文を書いて下さい」と。腹が立ったので、それを牧師会で話したらゲラゲラ笑われたんです。でも、それで目が開けたんですね、自分に愛が無いと。それ以来、「私には愛がありません」と言い切っています。それは、私は罪人の頭だということだから。心の貧しい者として立ち返るというのは、そういうことだと私は思っています。
『罪人の頭たちの聖書のことば』
毎週水曜夜9時47分より22分間
石垣弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)、長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
キリスト教放送局日本FEBC
AMラジオ 1566kHz 毎日21:30〜22:45(韓国チェジュ送信所より日本全国放送)
インターネット放送 www.febcjp.com 毎朝10:00更新、24時間聴取可能