信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。(コリントの信徒への手紙二 13章5節)
パウロはコリントの信徒たちが信仰に立つことを願って、今日の聖句を語った。信仰を吟味するとは、自分の中に果たして信仰があるかと問うことではない。そういう問いは玉ねぎの皮をむくようなもので、答えは出ない。信仰は信心ではない。また、贖罪(しょくざい)や復活というキリスト教の教理を信じているかと問うことでもない。信仰は教理を納得することではない。さらに、自分が信仰者にふさわしい生活をしているかと問うことでもない。信仰は道徳ではない。
パウロは「吟味しなさい」と語った後で、「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」と言う。信仰とはキリストが私たちの内におられることである。「吟味する」とは、受け入れるという意味である。キリストが私の内におられるという事実を受けて、キリストに呼びかけ、キリストの言葉を聞くことである。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。
聖書を通し、使徒たちを通して語っているキリストの言葉を聞き、これに従うことによって、私たちは日々、弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きているキリストと結ばれて生きる。私たちは「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」(12・10)、キリストの恵みによって、私たちは満足する。キリストの言葉を聞き、そのみ言葉に応えるという交わりがなければ、キリストがおられることが分からなくなり、信仰の「失格者」(5節)となってしまう。