中国アニメ映画『哪吒2(邦題:ナタ 魔童の大暴れ)』が『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を破り、歴代興行総収入第5位の映画となり、国際興行収入は20億8000万ドルに達した。この画期的出来事は、同作がアニメーション映画としては史上最高の興行収入、とのタイトルを獲得してから1カ月後に結果として起こっている。「クリスチャニティ・トゥデイ」で、ニューヨーク在住のフリージャーナリストYixiao Renが寄稿した。
この映画は、中国の伝統的な民話が原作で、仏教や道教の影響も受けている。反逆的な鬼の子である哪吒(ナタ)が、運命に打ち勝ち、天界の悪を倒す英雄となるまでを描いている。中国では1月に、北米ではその1カ月後に公開されたこの映画は、その派手でスピーディーなアクション、素晴らしいビジュアル、そして時に粗野なスラップスティック・コメディで観客を魅了した。2019年に公開されたオリジナルの『哪吒』を、続編はすぐに上回る作品となった。
この物語では、哪吒の敵から友人となった敖丙(ゴウヘイ)の犠牲をテーマとしている。キリスト教徒なら、その関係はキリストの犠牲の大きさに比べれば影のようなものであることに気づくかもしれない。キリストの犠牲は『哪吒2』で描かれているものよりもさらに畏敬の念を抱かせるものであることに。同時に、私たちが自ら犠牲を払った結果が、敖丙と哪吒が映画のエンディングで達成する勝利ほど満足のいくものではないことに気づくかもしれない。(警告:以下、ネタバレあり)
本作では、敖丙と哪吒は生まれる前から宿命のライバルとして定められていた。敖丙の父である龍王は、宇宙のポジティブなエネルギーから形成された霊珠を盗み、転生した哪吒に与えるべきものを自分の息子に埋め込んだ。敖丙は、哪吒を倒し、自分が天の力の真の継承者であることを証明するという使命を課せられた。
成長した哪吒は、その怪力と悪魔的な性質から、町の人々から敬遠されるようになっていた。敖丙はほとんどの時間を水中で孤独に過ごしていた。2人は海辺で思いがけず遭遇し、力を合わせて怪物を倒したことで友人となった。
しかし、敖丙の一族の獰猛な火を吹くドラゴンが哪吒を襲った時、敖丙は友を傷つけまいと一族に刃向かい、命を落とす。「私はあなたの代わりに霊珠になった」と、敖丙は哪吒に告げた。「私はこの犠牲を受けるに値する。私の犠牲があなたを生き返らせるのであれば、それは支払うべき正当な代価なのだ」
「誰がお前に頼んだ?」と哪吒は反応した。「死ぬな!」しかし、彼の懇願は無駄に終わり、父親に哪吒と故郷を助けてくれるよう頼む敖丙の最後の息が絶える。
敖丙が払った犠牲は、ヨハネによる福音書15章13節でイエスが語った「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉を彷彿とさせる。
しかし、『哪吒2』はここで終わらない。哪吒が敖丙の肉体を再生し新しい体で再び生き返るのを助けると、彼は生き返る。誤解により離れ離れになっていた2人は、最終的に和解し、一体となって戦いに臨む。
すべての最高の物語がそうであるように、最後には善が勝つ。正義が支配する。圧制者は倒される。希望に満ちた未来が待っている。
しかし、もし彼らが敵対したままだったら、敖丙はやはり哪吒のために死ぬことを選んだだろうか?
敖丙の犠牲は称賛に値するが、それは同時に、誤りを正そうとする努力にも見える。敖丙は、自分の死が、自分が生まれたときに父親が霊珠を盗んだことの償いになると考える。彼は、哪吒の中に何か良いもの―そのために死ぬ価値があると考えるものを見るゆえに自らの命を諦める決断をしている。
しかし、聖書は、敖丙のような神話上の登場人物が捧げられる可能性のある犠牲をはるかに超える犠牲について示している。それは、ふさわしくない人々のために進んで捧げられる犠牲だ。
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と使徒パウロはローマの信徒への手紙5章7~8節で書いている。
中国で大学生だったころ、初めてこの聖句を読んだ時の衝撃を今でも覚えている。神は、私たちがまだ神の敵であったとき、どのように私たちを愛し、和解を望み、私たちと親しくなりたいと願ってくださったのだろうか。私たちは神の栄光には及ばない存在であり、神が求める聖さには到底達することができない。
イエスが、自分をあざけり、嘲笑した人々のために血まみれの釘に磔にされたと知ったとき、私は混乱した。兵士たちはイエスを殴り、鞭で打ったのだ。茨の冠を頭に押し付け、十字架につけたのだ。それにもかかわらず、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」(ルカによる福音書23章34節)と言われた。
『哪吒2』で描かれていることとは異なり、他者のために命を犠牲にする理由が常に理にかなっているとは限らない。 イエスが十字架上で示された犠牲的な愛は、私たちを唖然とさせ、驚嘆させるべきものだ。なぜなら、イエスはかつて敵対していた人々(それはあなたも私も含む)のために、ご自分の命を捧げることを選ばれたからだ。
また、『哪吒2』の登場人物たちは、犠牲を払うことで不正の拡大を防いでいる。この映画に登場する、人を欺き、操り、偽善的な登場人物たちは、自分たちの利益のために他人を食い物にするが、哪吒、敖丙、そして彼らの仲間たちは、天界の君主である悪の化身、无量仙翁とその取り巻きを倒すために、自らの力と命を賭けて戦う。
映画の最後には悪に対する勝利が訪れるが、現実の世界では、正義のために時間やエネルギーを犠牲にすることは無駄で愚かであるように思えるかもしれない。 専制君主や暴君が人を脅迫して不正に利益を得ている様を見ると、私たちは拳を握りしめ、歯ぎしりする。 どのようなことでもこのようなことが起こるのを防ぐには、私たちは小さく無力だと感じる。
詩編82編3~4節のアサフのように、私たちは神に叫ぶ。「弱者や孤児を守り、貧しい人々、虐げられた人々を支えよ。弱き人々、貧しい人々を救い、彼らを神に逆らう者の手から助け出せ」
時に、私たちはこう思わずにはいられない。「より大きな善のために命を犠牲にすることは、悪が何度も何度も勝利を収めるだけなら、本当にそれだけの価値があるのだろうか?」
『哪吒2』は、この問いに理想主義的な方法で答えを出している。それは、私たちが望み、願う不正の問題に対する解決策を示し、正義が勝つことを望む私たちの自然な願いを明らかにしている。この映画は、現実が私たちの期待に応えられない場合に何が起こるかについては語っていない。しかし、聖書には、不正が、私たちの個人的な生活や、近隣、都市、教会で避けられない形で生じた場合、神にどのように語りかけるべきかについて、健全な知恵が示されている。
聖書の中で、預言者ハバククは、神が悪事を罰しないように見えるときに、これらの疑問と格闘している。「あなたの目は悪を見るのに余りにも清い。あなたは不正を黙認することはできません。それなのに、なぜあなたは欺く者を黙認するのですか? 神に逆らう者が自分よりも正しい者を呑み込んでいるのに、あなたはなぜ沈黙しているのですか?」(1章13節)
ハバククは、神が気にかけてくださることを知っており、信頼しているからこそ、神に厳しい質問や深い悲しみを投げかけたのだ。彼は、神が弱者や傷ついた人々の恐怖や苦悩を見ていると信じている。彼は、神が不正を無視することはないと知っているのだ。神は正義の神であり、いつか、神は事物を正しくしてくださる。
ハバククのように、キリスト教徒は皆、今日の世の中の不正を正すという、ゆっくりとした苦しい作業に関わっている。不正と戦うことがどんなに負担が大きく、疲れるものであっても、神は私たちの魂が安らぎを見出すことができると保証してくださる。「悪を行う者のゆえに思い煩ってはならない。悪を行う者のゆえにうらやんではならない。彼らは草のように、たちまち枯れ、青草のように、すぐにしおれてしまう」と詩編37編1~2節でダビデは宣言している。
ヨハネの黙示録が描くように、私たちのために命を捧げた神の子羊は、いつの日か完全な正義、神の民のための未来、そして善が悪に打ち勝つ究極の勝利をもたらすだろう。それまでは、私たちは期待と希望を抱きながら働き、待つ。
(翻訳協力=中山信之)