主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エゼキエル書の25章です。よろしくどうぞ。
エゼキエル書 25章15節
モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
モアブとセイルというのはイスラエル民族に敵対していた民族の名前ですが、彼らは「イスラエル人は自分たちは他の民族と違うぞ、なんて言っているけど同じじゃないか」とイスラエル人をバカにしました。実際、イスラエル人たちは彼らの言う通り、神様の言いつけを守らずに堕落して、それで神様の罰を受けてもいました。モアブとセイルはその様子をみてバカにしたのでした。しかしそれに対して神様は怒り、モアブとセイルに重い罰を与えました。
現代のクリスチャンもまた、「私たちは他の人たちとは違うのだ」という自認を少なからず持っていたりしますし、ある意味では持っていなくてはなりません。しかし、言葉ばかりでそれを叫びながら、実際の行動に反映されていないのなら、それはモアブとセイルにバカにされたイスラエル人と同じことです。
たとえるなら、イスラエル人は学級委員です。学級委員が先生の言いつけを守らずに悪いことをして先生に叱られ、それを見た他の生徒が「学級委員とか言って偉そうにしているけど、僕たちと同じじゃないか」とバカにしていじめたような話です。先生は「そんなことを言っていじめてはダメだろ!」とその生徒たちも罰しましたが、学級委員が悪さをしたという事実は変わりません。その学級委員は先生から叱られたのに加えて、他の生徒からもバカにされるという目にあったわけです。学級委員でなければ先生に叱られただけで済んだのに。
クリスチャンも同じです。神様の言いつけを守らなければ神様に叱られますし、それに加えて他の人たちから指を指されます。「クリスチャンだとか言ってるけど、他の奴らと変わらないじゃないか」と。クリスチャンであるゆえに神様から叱られる苦しみと、人から指を指される苦しみの、二重の苦しみを受けることになるわけです。
なんと不公平なことか。しかし、それが「生きる道を定める」ということです。クリスチャンに限らず、何かの道を決然と進む人には同じ「二重の苦しみ」が待ち受けます。普通の人が犯罪をやっても警察に捕まって罰を受けるだけで済みますが、芸能人が同じ犯罪をやったら警察に捕まって罰を受けるに加えて、週刊誌やワイドショーのネタにもされるという二重の苦しみを受けます。学校の先生が悪さをすれば、やはり法的な罰に加えて、普通よりは大きな社会的制裁を受けます。金融会社の従業員が金融関連の悪さをすれば、やはり普通よりも大きな制裁を受けます。弁護士や行政書士がコンプライアンス違反をしても同じことです。
それが自分の生きる道を定める人に求められる覚悟です。道を定めれば通常よりも大きな責任を背負わなければなりません。反対に言えば、その責任を負わないのであれば自分の道を定めることなんてできません。責任を背負うことなしに、二重の苦しみを受ける覚悟なしに、何者かになることはできません。
自分が何者かであると自負するなら、自分がクリスチャンであると自負するなら、「他の奴らと同じじゃないか」なんて言われないように、身を律することが必要です。
あー、自分で言いながら耳が痛い。こんなことを言いつつ僕もまた「他の奴らと同じ」ことをたくさんしています。一つ一つ、そういった習慣を手放せるように、神様に祈るばかりです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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