「正義」は自動的に相手に喧嘩を売っている【聖書からよもやま話585】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、ヨブ記の40章です。よろしくどうぞ。

ヨブ記 40章8節

自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ヨブは神様が自分に与えた多くの苦難に耐えかねて、神様に文句を言いました。「神様!私は正しいのに、どうしてこんなことをするのですか!」と。

それに対して神様は言います。「君が正しいということは、私が間違っているということか。私に対して君が君の正しさを主張するということはそういうことなんだぞ」と。ヨブは全能の神様のとんでもなく大きな力と知恵の前に、自分の正しさの小ささを思い知らされ、改めて神様の前にひざまずきました。

今の世の中、多くの人が「正しさ」を主張します。「私が正しい」「私たちが正しい」と口々に叫び合います。それは同時に「お前は間違っている!」「あいつらは悪だ!」という主張でもあります。それでも多くの人は言います。「私は私の正しさを主張しているだけで、相手を悪く言っているわけではない」と。しかし、実際はやっぱりそうなんです。自分を「善」の側に置くということは、自ずと相手を「悪」の側に置くということであり、自分を「善」の側に置くということ自体が、すでに相手への攻撃になってしまうんです。少なくとも、人間同士の小さな枠内ではそうなってしまいます。

聖書には「義人はいない。一人もいない」と書いてあります。正しい人なんて一人もいないということです。故に自分もまた人間である以上、決して正しくはないんです。必ず何らかの誤りを含んでしまいます。ですから、「自分は正しい」と思った時点で、あるいは「自分は善である」と思った時点で、人はすでに間違っているし善ではないんです。
確かに人間同士であれば、例えば自分が9割正しくて、相手が9割まちがっていることはあるかもしれません。しかし自分もまた1割はまちがっていて、相手もまた1割は正しいのだという視点を持たなければ平和を保つことはできません。

「私が正しい」という主張は、本人にそのつもりがなくても、自動的に相手に喧嘩を売ってしまうんです。自分の正しさよりも、自分の誤りに目を向けて日々生きることが大切かと思います。もちろんそれはとても難しいことですし、苦痛をともなうことでもありますが。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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