12月18日「さらに賢い先人たち」

 ハーマン・メルヴィル【1819~1891年アメリカの小説家『白鯨』の著者】がかつて友人に「わたしは何かに熱中する全ての男たちを愛している」と書いた。わたしたちのほとんどが何かに熱中する。しかし、わたしたちはそのような人々をどこで見つけるのか? 彼らは注目を浴びる男女たちの中にはいない。ジャーナリズム文化では平凡なことや邪悪なことは噂話として欲望を満たすのである。よいことや正しいことは新聞の第一面には掲載されない。大量生産のためにプログラム化出来ないものはどれも、特に正しいことを行い、悪いことを避けることなどは排除される。成熟はもはや個人の目標とはならない。それは学期制の授業で習得されないからである。

 わたしたちの先人たちは、わたしたちよりも賢かった。彼らは聖人たちを探し求め、神と勇気を持って交わるような生きた男女を求めていた。人間として如何に生きるか、すなわち、如何にして聖なる歩みを生きるかを、彼らから学ぶためである。有名人たちや被害者たちに辟易(へきえき)しているわたしたちの世俗社会は、神が平凡でしばしば予想だにしない人々の中に働いていることを見る能力、つまり、聖人を認識する能力を失っている。その言葉自体の意味が失われてきたために、尊敬するに値する人ではなく、「わたしは聖人ではない」という棄権者と呼ばれるほうが多くなってしまった。レオン・ブロイはわたしたちに感謝と洞察力の回復に向かう方法をぶっきらぼうで大胆な文言で述べる。「聖人にあらず、唯、悲哀のみ」である、と。(Triste ―― de pas etre Saint)
 

わたしは死の淵にある。わたし自身が神の祭壇にいけにえとして献げられている。これこそが走るに値する唯一のレース。わたしは競争の最後までずっと信じながら、一生懸命走りぬいた。
今残されていることは「神の賞賛を受けること」と叫ぶだけだ。
―― テモテへの手紙(二)4章6~8節a

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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