円安時代のアメリカンドリーム 【関野和寛のチャプレン奮闘記】第19回

かくして、私は3年ぶりにアメリカの地に旅立った。旅立つにあたり「円安の時代にドルで稼げるのは正解!」「アメリカンドリームで羨ましい」などとも言われた。確かにアメリカは日本よりもはるかに経済的に豊かな国になっている。だが、3年で2回も海を越える引っ越しをすれば、貯金はすっからかんになり、1杯1200円の生ビール、2000円のハンバーガーなど食べられるはずはない。けれども、それでも私はもう一度アメリカに挑戦したかったのだ。

そしてアメリカでの教会、最初の日曜日の礼拝がやってきた。その日の礼拝に集まった人々はなんと7名だけだった。この教会は50年近い歴史があり、日本語と英語を使って国際的な働きをしてきた教会で、全盛期には毎週50人ほどの人々が集まっていた。しかし、コロナ禍を経て牧師不在となり、大多数の会員が教会を去ってしまっていた。それだけではない。古い教会の駐車場には毎週のように誰かがゴミを捨てていく。ゴミといっても、日本の道端に転がっているようなゴミではない。大きなベッドマットレスやピアノ、産業廃棄物などだ。

それでも残された教会の人々は、この教会を守り続けていた。キリスト教離れが進む世界、アメリカで生活する日本人の激減、この教会が成長する要素は皆無だった。そして、プライドが自分をさらに苦しめる。「私は日本で一番大きなルーテル教会で14年間牧師をしていた!」「コロナパンデミックの中でコロナ病棟のチャプレンとしても働いてきた!」「チャプレンがいない日本の医療界において、チャプレンの道を切り開いてきた!」――そのようなプライドが、裸の自分、等身大の自分、アメリカで通用しない自分を直視することを遠ざける。

だが、過去の自分にしがみついたり、不安に支配されて悩んでいる暇などない。「やるか、やらないか」どちらかしかないのだ。当然やるしかない。そして、その道は実はシンプルだ。教会をもう一度立ち上がらせるために必要なことはそんなに多くはなく、難しくはない。

毎週ひたすらに自分の言葉で、聖書の言葉を魂を振り絞りながら語り続けること。
毎週、聖餐式を行うこと。キリスト以外の人間の力や伝統教会を支配しないように、聖餐式を欠かさず続けるのだ。
牧師は教会の中にとどまらないこと。イエスがそうであったように、弟子たちが世界中に遣わされたように、牧師は病んでいる人々、悩んでいる人々、すべての人々の元に出かけていく。

これだけを必死に行い続けた。すると不思議なことに、毎週のように人々が教会にやってくるようになった。日本人はほとんど来なかったが、現地のアメリカの若者たちが集まってきた。彼らは口をそろえて言った。「アメリカには表面的に歓迎してくれる教会はたくさんあるけど、この教会には本当の温かさがある。日本の文化を持っているこの教会は素晴らしい」と。気がつけば、礼拝出席者は7名から10名、10名から15名、そして30名に増えていった。

しかし、ここからが私のもう一つの挑戦だ。私のアイデンティティは、教会だけにとどまる牧師ではない。この世界の最前線で牧師であり、そして病院のチャプレンとして働くことこそが私の使命である。だが、いきなりやってきた外国人をすぐにチャプレンとして迎えてくれる病院はない。私は毎日ひたすら祈り続けていた。「神よ、助けてください。この教会をもう一度立ち上がらせてください。そして、私をチャプレンとして病院に遣わせてください」。気づけば、18年間の教会生活の中で、これまで以上に聖書を開き、祈りの時間を大切にしていた。

イエスをはじめ、聖書の登場人物の多くは、荒野をさまよっている。過酷な荒野で生き残るために、個人の能力や社会的地位などはまったく役に立たない。そうではなく聖書の中で荒野とは、孤独の中で弱い自分に向き合い、その中で必死に神を求める場所である。私も荒野で叫んでいた。「神よ、この教会をもう一度立ち上がらせてください。あなたにしかできないのです……」。そして、私は祈った。「神よ、私はこの国で、誰からも相手にされないただの外国人かもしれません。それでも、私を使ってください。病院で死を前にした人々、病で苦しむ人々の元へ、私を送ってください。私はそのためにここにいるのです」

そのように祈り続けていると、ある日、日曜日に会ったことのない人が教会にやってきた。「あなたの活動の記事をインターネットで読みました。私の母は末期でホスピスケアを受けています。毎日リビングに座って、落ち込み、何もする気力がありません。牧師として、私の母のところに来てください」。その人はそう言った。

今、私が働いている教会は、もしかしたらこのミネソタで一番小さな教会かもしれない。そして、チャプレンとしてこの国にやってきた私が働ける病院はまだ見つかっていない。しかし、すでに目の前には道が開かれていたのだ。この小さな教会だからこそできる神の働きがある。小さいからこそ、マイクなしでも礼拝堂にいるすべての人に声を届けることができ、すべての人のまなざしを感じ、気遣いや喜びや悩みを共にすることができる。そして、そんな一人ひとりに神のメッセージを語ることができる。

そして、この小さな教会にいるからこそ、私をチャプレンとして必要だといって、会いに来てくれる人がいる。360度、不安と荒野に囲まれているけれど、私は絶対に大丈夫だ。この荒野の中に、一筋のキリストの声が聞こえてくる。「大丈夫だから、ついてきなさい。絶対大丈夫だから、ついてきなさい」

道なき荒野の中で私は光に向かって彷徨っていくのだ。

*個人情報保護のためエピソードはすべて再構成されています。

Image by Gerd Altmann from Pixabay

アメリカへ向けて行動あるのみ 【関野和寛のチャプレン奮闘記】第18回

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