全ての男性と女性は神に飢え渇いている。様々な方法で隠され、誤解されているが、それでも常に人は飢え渇いている。誰もが「わたしの主よ、わたしの神よ」と叫ぶ寸前にまで至る。通常、その叫びは「疑い」や「侮り」によってかき消され、「日常」の鈍い痛みによって弱められ、「心地よい凡庸な生活」によって隠されてしまう。そうした時、人は「ある言葉」「ある出来事」「ある夢」などに出会い、そして「信じがたいほどの恩寵(おんちょう)」「眩(まばゆ)いばかりの願望」「挑戦的な希望」「勇気ある誠実さ」に気づき始める。だが、そのような気づきだけでは十分ではない。.ぼんやりしていると、その「気づき」はトロトロと溶け出し「宗教的なセンチメンタリズム」や「涙涙のロマンチシズム」に堕ちてしまう。あるいはさらに悪いことに、それは「傲慢な愛国主義」や「鼻持ちならないファリサイ主義」へと凝固してしまう。主観的に、あるいはイデオロギーとして「気づき」に働きかけ、心を天に開け放つこと。そして「神よ」と祈りの声を上げさせること ―― そのために存在するのが牧師である。
そのうちきっと分かるだろう。人々の胃が「生硬な教え」を消化できなくなって「霊的なジャンクフード」 ― つまり、空想をくすぐるようなキャッチーな意見 ― でお腹を満たす時が来る。その時、人々は真理に背を向け、蜃気楼を追いかけるようになる。しかし、しっかりしなさい。あなたは「自分のしていることを」しっかり見つめていなさい。「善を求める困難な時がある」ということを心しなさい。「福音のメッーセージ」をいきいき保ちなさい。「神の」として、その仕事を全うしなさい。
―― テモテへの手紙(二)4章3~5節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。