次の13日間は預言者エレミヤの人生について、そして「よく生きること」の黙想である。
よく分からないことがある。それは「なぜ、こんなに多くの人々が悪い生き方をしているか」ということである。それほど邪悪ではないが、無意味に生きている人が実に多いのである。それほど残酷ではないが、愚かに生きている。わたしたちの文化の中で傑出している人々を見ていても、称賛すべきものは皆無で、真似るべきものはさらに少ない。有名人はいても、聖人はいない。有名なエンターテイナーはいるが、その人たちは退屈に悩む不眠症の人々を楽しませるばかりである。悪名高い犯罪者は、臆病な日和見主義の人々の攻撃的な考えを行動に移すのである。小心者で甘やかされたスポーツ選手は、怠惰で無関心な観客を弄(もてあそ)ぶ。わたしたちの文化はスポーツ選手を甘やかして幼稚なままに育て上げ、そしてその選手が怠惰で無関心な観客の身代わりになって何かをプレーして見せる。人々は目的を失い退屈になって、些細なことやくだらない小話をして、ひたすら自分を楽しませる。よいことのために敢行される冒険もある。善を追求することもある。でも、どちらも決して、新聞の一面を飾ることはない。
こんな世だから、奇妙な現象が起こる。つまり「つまらない人生を生きている個人」が「有名になりたい」と願い悪事を働くという現象である。「みんなの中の、ただ一人」である自分が「有名人」へと変身する試みとして目立っている誰かを殺したり、満席の飛行機の乗客たちの命を危険に曝したりしている。そして、その試みはしばしば成功を収める。マスメディアは犯行声明を発信し、その犯行を放映する。その動機を分析し、心理学的なプロフィールを提供するために、作家は互いに競い合う。無意味で邪悪な企てに、これほどまで熱心に報いている文化は他のどこにもない。
イエスは言われた。
「渇いている人がいたら、わたしのところに来て、
飲ませなさい。
生命の水は、わたしを信じる人の胸の裡に、
その深いところから湧き出し流れ出ることだろう。
聖書がまさに、そう語っているように。」
―― ヨハネによる福音書7章37b~38節