因習の深い山村地域に住む知人が電話をかけてきた。村では代々続く旧家で、ご本人は長男である。
「実は今度、洗礼を受けようと思っている。ところで、キリスト者になると、神事や仏事に参加してはいけないのだろうか」と言うので、「参加しないと、どうなる」と聞くと、「たぶん村八分になるかもしれない」との返事が返ってきた。「ところであなたは、お寺さんや神社に行くと信仰がなくなるのか」と尋ねると、「そんなことはないよ」と言う。「じゃあ、お寺さんや神社に行ったらどうだろう。〈信仰において譲らず、愛において譲る〉という言葉があるが」と答えた。
日本のような非キリスト教社会では、神事仏事にかぎらず、地域社会の習俗慣例に対してどのように対処すればよいかと悩むことがある。そのような時にこの「信仰において譲らず、愛において譲る」というルターの言葉はよい示唆を与えてくれる。これは、彼の著作『ガラテヤ書大講解』の中で主張していることを要約した言葉で、異なる価値観の下に生きている人たちと接するときのキリスト者の生き方を鮮明に表している。
ガラテヤ地方の諸教会(小アジア中央部にある異邦人の教会、現トルコ)にエルサレムからユダヤ的根本主義者たちがやって来て、「異邦人といえども、ユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない」と強固に主張した。この主張に影響を受け、ガラテヤの教会で同調する人たちが出てきて混乱が生じたことが、パウロがガラテヤ書を書くきっかけになった。
パウロは、「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されている。救われるためには割礼があろうがなかろうが問題ではない」と主張していた(ガラテヤ2:1—12参照)。その立場から彼は割礼に関しては自由な考えを持っていて、「割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と表明した(5:6)。
こうしたパウロの自由な態度をガラテヤ書から読み取って、ルターは『大講解』の中で、「愛はどんな小さなことであっても譲歩して、『私はすべてを忍び、すべてのものに譲歩します』と言う。しかし信仰は、『私は誰にも譲歩しません。すべてのもの、地の人々、国民、王、君公、裁判官などが私に譲歩するのです』と言う」と主張した。これをひとことで言うと、「信仰において譲らず、愛において譲る」となる。
彼はさらに、「キリスト者は信仰に関するかぎり、もっとも誇り高く、もっとも頑なで、髪の毛一本たりとも譲りはしない」と主張し、この点では「信仰によって人は神になる」(新共同訳「神の本性にあずからせていただく」2ペテロ1:4)とまで言い切っている。信仰とは一途なものである。決して譲ることはない。しかし、愛はどのような人にも向けられ、忍びながらでも相手を包み込むように譲る。
しばしば信仰に生きているつもりでも、日常の中では、世の中にも自分にもいささか妥協気味に生きていることがある。ルターをして、このような信仰者の生き方を獲得させた根っこには、彼の信仰と愛についての理解がある。彼は『ガラテヤ書大講解』で5章2節以下を解説するにあたって、「信仰が愛によって働く」、「愛はかたちをもつ」、「愛は信仰が働くための道具である」と言う。信仰と愛は切り離すことができないことを彼はパウロから学び取り、そこから「信仰において譲らず、愛において譲る」という信仰者の生き方を獲得したのである。