主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 ヨハネの手紙第一の5章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの手紙第一 5章7節
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
生きていると、心配事って尽きませんよね。お金のこと、健康のこと、人間関係のこと、僕たちは様々なことを心配しながら生きています。しかし、「世界三大幸福論」の一人であるヒルティはこんなことを言いました。「心配というのは役に立たない。なぜならいくら心配したところで、それ自体はその心配の対象となる脅威を避けるのに何も寄与しないからだ」と。
たしかにお金の心配をいくらしたってお金が入ってくることはありません。健康の心配をいくらしたって健康になることはありません。むしろ不健康になってしまうかもしれません。山でクマに遭遇したらどうしよう?と心配したところで、心配するだけではクマに会う確率は少しも下がりません。
人間の心配の大半は「自分の力ではどうにもならないこと」に対する心配なんです。自分の力でどうにもならないからこそ、心配するしかないんです。自分の力でどうにかなるなら、心配せずに自分の力でどうにかすればいいんですから。健康が心配なら食事に気をつけたり良い睡眠をとったりすることで、病気になる可能性を下げることはできます。しかしそれでもやっぱり病気になってしまうことはあります。その「どうにもならなさ」に人は心配するんです。
だから聖書は「心配は自分でせずに、神様にしてもらいなさい」とすすめています。これはつまり「どうにもならないことは自分で抱え込まずに、神様に投げてしまいなさい」ということです。「祈るしかない」というのは世では多くの場合、絶望的な状況を示すような言葉ですが、それは祈りを過小評価しすぎです。祈るというのはその心配事を神様に投げる、神様に任せるということですから、そこに大きな力があります。「祈れる」というのはすごいことなんです。だって地球上の生物のうち、祈ることができるのは人間だけですよ。祈りは人間だけに与えられた特権なんです。動物は「自分の力でどうにもならないこと」はどうすることもできませんが、人間はそれを祈ることで乗り越えられるんです。
「宝くじがあたるように毎回祈ってるけど当たりやしないじゃないか!」なんて言う方もいるかもしれません。しかし僕は「祈れば当たる」なんて言っていません。「当たる・当たらない」の責任を神様にみんなお任せしてしまえば、自分の心がまず楽になるでしょう?と、そういうことを言っています。言い換えれば、自分で負えない責任まで、自分で負おうとしてはいけないぞ、と言っています。
人間は「自分の力ではどうにもならないこと」の責任まで自分で背負い込もうとしてしまうものです。そしてそれが人間の不幸の一つの源です。余計な重荷を背負い続けているんです。その余計な重荷は神様に預けてしまえばいいんです。その方がいいんです。
心配は自分で抱えずに、神様にアウトソーシングしてしまえばいいんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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