――どんな活動をされていますか?
ジュエリーデザインの仕事をしています。
ファイン・ジュエリー(天然の宝石、貴金属を原料に作られるアクセサリー)ブランド「TOWAERU」(トワエル)を運営しています。
――素敵なお仕事ですね! どんなきっかけで始められたのでしょう?
初めからジュエリーデザイナーを目指していたわけではないんですよ。
いまから30年以上前に離婚をし、シングルマザーになったのですが、当時はまだ社会や企業の子育てに対するフォロー体制も整っていないし、保育園に預けたり、ベビーシッターを雇えば高額な費用がかかる――。それでは割に合わないから、儲けの利幅が大きい仕事をしようと考えたんです。
ものづくりや絵を描くことは好きだったので、デザインだったらできるかもとアメリカでデザインを学びました。
競争社会のこの世の中で、真っ向勝負を挑んだら敵わない。でも、意地だけは強かったから、ライバルが少ない特殊な業界を選んだんですね。
――いまとは時代背景がかなり違っていた当時、シングルマザーとしてお仕事されるのは苦労もあったのではないでしょうか。
そうですね。20代の頃は「誰にも負けたくない!」「誰にも頼らず、1人ですべてやるんだ!」と鎧兜を身にまとっているようでした。
30~40代の頃はありがたいことにとても忙しかったのですが、セクハラ、モラハラ、パワハラが当たり前の時代で、そんな環境に疲れ果ててしまって。
ちょうどその頃、それまで反抗期がなかった娘が大学生になって「外の世界が見たい」と家を出て行ってしまいました。
さらにリーマンショックが起きて、契約していたヨーロッパのジュエリーメーカーが続々と潰れてしまって…。国内のブランドと契約してもうまくいかず、裁判沙汰になったりと、50歳を目前にして、張り詰めていた糸がプツンと切れてしまいました。
気が付いた時にはうつ病を発症していたのですが、それも認めたくなくて。
知人と一緒に新しい事業を始めたら、金銭トラブルなど色々重なり、裁判沙汰になったりもして疲弊していました。
――辛いことが重なりましたね…。
そこから生きる気力を失ってしまい、死ぬ場所を探すために九州に行きました。
その頃は病状もどんどん悪化していて、食欲もほとんどなく、薬とお酒で生き延びているような状況です。誰にも会いたくないし、何もしたくない。特に娘には絶対に自分のこんな姿を見せたくない。
九州でも毎日毎日「死にたい、どうしたら死ねるだろう」とばかり考えていましたね。
あるとき、病院でうつの薬をいただいた帰り道に“水餃子”の文字を見つけて「水餃子だったら食べられるかもしれない」と立ち寄ったお店でイエス・キリストに出会うんです。
リーマンショック、知人の裏切り、うつ…人生のどん底で触れた、キリストの愛。ジュエリーデザイナー・デボラ山本さん 【たまものクラブ】の続きを読む