監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。
テトスへの手紙1章7節(参照箇所同書1:5〜9)
人を相手にして、仕事をする人はすべて生き方が問われるものです。牧師、教師、医師、カウンセラーなど、その人たちがなにをしてくれるかは、当然人は期待しますが、それ以上に、その人はどのような人であるかにより関心を持ちます。どのような人であるかは、どのような生き方をしているかに表れるものです。
教会の指導的立場に立つ監督は、神の言葉を語る責任を持つのは当然のことです。それ以上に、どのような生き方をしているのかが問われていることを、この書簡の著者は教えています。ここに見る、監督職の姿は、自分で律する自己像というより、他者からどのように見られているかを教えるものです。それを束縛と見るか、自戒への気付きと受け取るかは、それも生き方の表れといえます。またこれを他人を評価する物差しとするなら、それもその人の生き方に他なりません。
しばしば、このような戒めは束縛感を感じるものです。しかしながら「非難される点があってはならないのです」という言葉は、他者との関係を意識した言葉です。これを束縛と感じないためには、生き方に愛を加えることです。愛する生き方には、自由こそあれ、束縛感はありません。