わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙2章19節(参照箇所同書2:15〜21)
信仰を持って生きる者は、キリストとどのような関係にあるかをパウロが教えている個所です。これについて、ルターは興味深い解釈をしています。「パウロは死んでしまったのである。生きているのはキリスト者である。外見において、仕事において、食物において、着る物について不信仰者と何のちがいもない。キリスト者もこの世の被造物を用いる。ちがうのは信仰を持って生きているということである」。これはなんと素晴らしい解釈かと思います。
うっかりするとパウロの言葉は、一種の神秘主義に落ち入る可能性を持っています。そうなると現実の生の生活感を持たない、特別な信仰者のあり方になってしまいます。ルターは、神秘主義になることを避けました。彼がパウロの言葉を通して言いたいのは、たしかにパウロという人間は罪人としてキリストと共に死んでいるが、しかしキリストを信じる者として、この現実を生きている、見てくれも、毎日の生活も世間の人と変わりない、ただ信仰を持って生きている、それが世間の人とちがうのだということなのです。(ルターの引用は徳善訳ガラテヤ書大講解から)