8月19日 エゼキエル書33章11節

わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ。お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
エゼキエル書33章11節(参考箇所同書33章1〜33節)

エルサレム陥落によって、絶望のどん底に落ち入った人々が、「我々の罪と過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」(10節)と言っているのを、神は御存知であるとエゼキエルは人々に告げます。「どうすれば生きることができるか」と助けを求める声を神は聞いてくださると人は思い込みがちです。しかし「もはや生きることができない」という絶望の声もまた神の聞くところであるとエゼキエルは言っているのです。

神はさらに言われます。「わたしは生きている」と。生きているお方であればこそ、「生きることができない」と言う絶望の声に耳を傾けられます。そして「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」と言われます。

神は罪人が死ぬことを喜ばれるのでなく、生きることを喜びとされます。悪人が神の喜びとなって生きるためには、立ち帰らねばなりません。立ち帰るとは悔い改めのことであり、「もはや生きることができない」者がくるりと方向転換をして、「わたしは生きている」と言われるお方に向きを変えることです。それは「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」との声を聞く時なのです。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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