ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクはヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。
創世記27章27節(参考箇所同書27章1〜29節)
本来なら長子であるエサウが父イサクの祝福を受け、家督を継ぐところ、母リベカは弟ヤコブをイサクガ祝福するように一計を案じ、だましてイサクの祝福をかち取ります。イサクはこれを知り、地団駄踏んでくやしがりますが、もはや後の祭でどうしようもありません(30節以下)。エサウも父の嘆きを目の当たりにし、悲痛な叫びをあげますが一旦行われた祝福の行為は変更ができないのです(38節以下)。
巧みに偽計をもってだましたのですから、まちがったことをしたのですから変更をしてもよさそうに思います。しかしながら祝福は、それ自体神の行為なのです。人為的な要素が入ることを許しません。人の思惑と無関係に祝福は有効なのです。
かつて初代教会の歴史の中で、迫害に耐え切れず背信の罪を犯した祭司から受けた洗礼は有効か、無効かという論争が行われたことがありました。教会は、それに対して洗礼は授けた司祭がどうであろうと有効であるとの結論を出しています。考えてみれば、礼拝の時、わたしたちは祝福を受けます。その祝福は人間の側の条件に左右されません。たとえわたしがどのような人間であろうと一旦受けた祝福は神の御心として働きます。