『告白』の物語は、アウグスティヌスの少年時代へと進んでゆく
アウグスティヌスが自らの人生の道のりを思い返しながらたどってゆく『告白』には、失われた断片を一つ一つ拾い上げながら歩き続けてゆくようなところがあります。今回は幼年時代に引き続いて、彼の少年時代の記憶に聞いてみることにしましょう。
「しかもなお、主よ、わたしは罪をおかしていた。全自然の秩序者で創造主である主よ、罪についてはただその秩序者なる者よ、わたしの神よ、わたしは両親とあの教師たちの戒めにそむいて罪をおかしていた。」
このような言葉と共に振り返られているアウグスティヌスの少年時代とは一体、どのようなものだったのでしょうか。
アウグスティヌスは、少年時代に犯した自らの罪について語る
かつての自分自身の姿を思い返しながら、アウグスティヌスは子供時代に犯した彼の「罪」なるものを、数え上げてゆきます。球遊びに熱中して、勉強をさぼったこと。競技で他の少年たちに勝つことによって、高慢になっていたこと。フィクションの物語に度を越して夢中になって、ますます強い刺激を求めるようになっていったこと。後の箇所に至ると、彼は家族や学校の先生に嘘をつき、食卓から食べ物を盗んだことなどをも告白してゆきます。
少し時をさかのぼって、幼年時代について思いを巡らせている箇所に戻ってみても、アウグスティヌスが生まれて間もない幼子について注意しているのは、彼らの抱えている「罪」のことばかりです。子供たちは一見すると無垢な存在に見えるけれども、同時に、彼らの振る舞いの多くが根深い自己中心主義に突き動かされてもいることには注意を払わなければならないであろうと、彼は言います。
子供は、大人たちに自分自身の言うことを聞かせようとし、要求が聞かれないと怒ります。その子供が時を経て成長すると、アウグスティヌスのような少年になってゆくのです。人間は、生まれたその瞬間から死ぬ時に至るまで、彼あるいは彼女の宿命であるところの「罪」を犯し続けている。これが、西洋の思想の歴史が向かってゆく方向を決定づけた書物の一つであるところの『告白』が、現代を生きている私たちに対して提示している人間観にほかなりません。
「罪とは『存在の超絶』によって初めて明かされることになる、『わたし自身の生の隠されていた真実』にほかならない」:アウグスティヌスは、自らの少年時代に何を見たか
すでに述べたように、『告白』が書かれた当時、アウグスティヌスの周辺にいた人々には、アウグスティヌスという人はまごうかたなき「真理の人」に見えていました。世の中の物事よりも魂の救いの問題の方に心を砕き、彼を慕う友人たちと親しく交わり、知恵の書物の言葉に共に耳を傾けては祈りに明け暮れていた彼の姿に、同時代の人々は、彼らにとっての「理想の生き方」の実現を見たのです。
しかし、私たちも後に見るように、アウグスティヌスが『告白』を書くに至るまでに歩んできた実際の道のりがそうしたイメージからは程遠いものであることは、誰よりも、彼自身が最もよく分かっていました。彼は、持って生まれた鋭敏な知性を用いて世俗的な成功を得ることを求め、見た目のきらびやかさに欺かれて、虚偽の教えに没頭しました。そして、青年の頃から異性との関係が絶えなかったアウグスティヌスにとっては、情欲の問題こそが、魂の救いの問題から彼を遠ざけ続けている最も大きな要因にほかなりませんでした。
罪とは「隠され続けてきた、わたし自身の生の真実」なのであって、この世には誰も最初から、「自分には罪がある」と感じている人はいません。むしろ、人間とは、「存在の超絶」そのものである他者から「あなたには罪がある」と告げられることによって、はじめて自分自身に罪があることを知るに至るような存在にほかならないのではないか。アウグスティヌスは、彼にとっての絶対他者である「イエス・キリストの父なる神」から自分自身の罪を啓示されるに至ったその立場から、自分の少年時代を振り返っています。罪について語るとはおそらく、わたしの存在を超えて存在する「あなた」の言葉とまなざしにさらされながら、わたしが「わたし自身の本当の姿」について語るということです。罪という規定のうちには、超絶の論理をもってしか近づくことのできないような何物かがあります。その規定の真実は、アウグスティヌスが彼の『告白』の道のりの最果てに至って、彼自身の救いが立ち現れくるその箇所に到達して初めて明かされることになるでしょう。
おわりに
数限りない嘘をついても、盗みを働いたとしても罪ということの本当の意味はわからず、ただ「存在の超絶」そのものであるところの「あなた」から注がれる認識の光によってのみ、人間存在の一員であるところのわたしは、「わたしには罪がある」を根底的な仕方で知ることになる。『告白』の読解もまだ始まって間もないですが、アウグスティヌスの生の真実を彼自身がついに知ることになるその「与えられる決断としての回心」の瞬間に向かって、少しずつ歩みを進めてゆくことにしたいと思います。
[『告白』読解も三回目を迎えましたが、この場を借りて、昨年にこのコラムを読んでくださった方への感謝を伝えさせてください。「断片から見た世界」も2022年からは新しい試みに入っていますが、この試みは、筆者の中では昨年にクリスチャンプレス紙を通じて多くの方に記事を読んでいただいた経験と決して切り離すことのできないものです。昨年は記事に対してさまざまなコメントや励ましをいただき、ありがとうございました。もしよかったら、アウグスティヌスの生の道程を辿りなおす試みにも、お時間のある時にでもお付き合いいただけたら幸いです。]