悪を目の前にしても、十字架だけを持って
2015年7月12日 年間第15主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
イエスは十二人を遣わすことにされた
マルコ6章7~13節
説 教
イエスさまは「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあります(7節)。私たちもイエスさまの弟子ですから、「私は12弟子じゃないから関係ない」と思ってはいけません。私たちも弟子の一人として、同じように遣わされます。
12人は「悔い改めさせるために宣教した」と書いてありますが(12節)、何を宣べ伝えるのかは書いていません。さて、何を宣べ伝えたのでしょうか。
「すべての人間が神さまに愛されていて、神さまが共におられるということを宣べ伝えるように」と言われているのだと私は思います。
イエスさまは派遣するにあたって、「汚れた霊に対する権能を授け(た)」とあります(7節)。それはイエスさまのことです。私たちはイエスさまの体までいただいて、一心同体にさせていただくのです。そして、派遣されるのです。今日もイエスさまは私たちと一緒の顔と体の向きで生きてくださるお方です。だから、そのお方と一緒に生きるのです。
だから、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(8節)と言われるんです。イエスさまがそういうお方だったからです。
ところで杖は、当時は野獣などもいましたから、旅の道中、自分の身を守るための武器だったと言えます。でも、ここでイエスさまが言われる「杖」というのは「十字架」のことじゃないかなと私は思いました。
なぜかと言うと、イエスさまが十字架の上でなさったのは、「エイヤーッ」と力を振るって、すべての悪霊をワーッと追い出すようなことではなかったからです。
では、イエスさまが十字架の上でなさったことはどういうことだったのか。イエスさまは祈られました。イエスさまは十字架の上で釘を打たれ、軽蔑され、皆からバカにされましたが、祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。つまり、「彼らは、自分の中に神さまが住んでおられること、自分のいのちが神の家だということを知らないのです」と祈られたのです。
これが、イエスさまが最後まで持っておられたただ一つの杖、十字架の木です。弟子たちに「それだけを持っていけ」と言われたのではないかと私は思うのです。
その棒で悪いやつをやっつけるのではなく、自分のことを責めてくる、自分のことを役立たず扱いしてくる人に対しても、「神さまがあなたと共におられる」と祈ること。それがイエスさまの十字架。そして、これだけを携えていくようにと言われたのではないでしょうか。
イエスさまの旅の最後は、十字架の上で裸でしたから、パンもなく、2枚の下着どころか、裸でした。もちろん、お金も持っていない。でも、十字架の木だけを持っていたんですね。十字架の木とは、どんな悪が目に見えても、その奥には神のいのちがあるという「神の真実に向かうまなざし」でした。
人間の中には神さまのいのちがあります。それを認めること以上に大切なことはないと思います。それを互いに認め合うのがキリストの弟子です。
お互いに悪いところが目についても、その奥に神さまが共におられます。そのことを祈るのが「悪霊に対する権能」です。目に見える悪にもかかわらず、その奥に永遠なる神がおられるという「神の真実」を見てくださるイエスさまが「悪霊に対する権能」です。そして、そのお方の真実に信頼することが、「悪霊に対する権能」を授かることです。
そのお方への信頼に結ばれていなかったら、私たちは、目に見える悪に巻き込まれて、悪に悪を返す悪の仲間になってしまうでしょう。「悪霊に対する権能」を持たないからです。でも、そうであってはなりません。
目に見える悪があっても、その奥にあるのは、永遠という神さまのいのちです。そのことを、頑張って、お互いに認め合い、祈り合うことが、私たちの受けた派遣であり、宣教です。
今日、出会う人に悪を見出したとしても、その人に「神さまがあなたと共におられます」と祈るならば、それが私たちの宣教です。そして、それが「悪霊に打ち勝つ権能」です。それをしてくださっているのは、私たちと共にいてくださる方、「悪霊に打ち勝つ権能」であるイエス・キリストです。
この祈りをすればするほど、イエスさまと一心同体になって、仲良しになっていきます。そういう道を、また今日、歩み始めることができるよう、ご一緒にお祈りをしましょう。そして、そういう教会になるようにしましょう。複雑なことではありません。たやすくはないけれど。でもそれは、人間の努力の範囲内でできるお祈りです。祈ることに関しては、お互いに頑張りましょう。