仏教が生まれたのは2500年も前のインドであるから、仏典が分かりやすく翻訳されたところで、私たちはネイティブ感覚で理解できない。例えば、生まれ変わりを繰り返すという「六道輪廻(りんね)」の世界観が、仏典には当たり前に説かれる。この世での悪業のために地獄に堕ちた人が長い歳月にわたってもだえ苦しむ風景も、事細かに描写されている。読み物としては面白いけれど、言葉通り信じられるかというと、「どうせ見たことないくせに」と心の距離を感じてしまう。
しかし、不思議なことに、毎日読経していると次第に昔のインド人と気心が通じ合ってくる。仏教をあがめていた心情が伝わってくる。現代の物差しを知っているだけに、ネイティブが気づかなかった仏教の魅力に、私の方が気づいていると思うことさえある。
最近、目からウロコが落ちたのは、インド人の議論のありようである。仏教文献を読んでいると、教義解釈をめぐってさんざん議論するくせに、お互いに言いっぱなしでいつまでたっても正統を決めない。この優柔不断さが実にまどろっこしくて、しょっちゅうイライラした。キリスト教のように公会議を開いて正統と異端を決めてほしいと思ったことが、何度あっただろうか。
例を一つ挙げてみると、有名な『般若心経』の「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉は、「形ある世界(色)はすべてつながりあっている(空)」という意味である。現代的に言えば、「コロナウイルスをもらうのも逆にうつすのも、この世のことわりだ」とおおらかに受け入れる立場である。しかし、冒頭に書いた「六道輪廻」をストイックに生きる人たちは、あくまで「自業自得」だと考える。苦しみから逃れるためには、その原因を絶つよりほかない。すなわち、「マスクや手洗いなどの感染対策の徹底こそ正義」という立場になる。両派閥で激論を繰り広げているところに、横から「苦しみを嫌う心が、病を生み出しているにすぎない」と叫ぶ学派も参戦してくる。激論は何百年にもわたって平行線のまま続き、その対話のすべてが仏典として収められている。だから、仏教を理解するには仏典をとにかく読む以外にないが、読めば読むほど「正しさ」が分からなくなる。
私はずいぶん長く迷宮をさまよっていたが、「正しさ」に執着しなければいいのだとさとった時、光が差し込んだ。インドの仏教徒は「何が正しいかを決める」という発想を、ついに持たなかったのだと思う。さとりの境地に達したお釈迦さまならともかく、煩悩多き人間には正しい判断などくだせないはずである。だから、とことんまで「議論を尽くす」ことに重きを置いた。仏教徒らしい奥ゆかしい手法だと思う。それに引き換え私は、私は「正しさ」の物差しに甘えようとしていた。なんでも多数派の論理で押し通してしまう現代的な思考に毒されていたのである。
よくよく考えてみると、「病をもらうのがこの世のことわり」も、「感染対策の徹底を」も、「病は心の表れにすぎない」も、すべて一理ある。激論を交わしていたインドの仏教徒たちは、お互いの価値観を尊重し多面的に世界を見ていたといえる。私たちがそこから学ぶことは多い。夫婦別姓や同性間での結婚など、現代がかかえる多くの問題は、性急に「正しさ」を求めるよりも、「議論を尽くす」ことが欠かせない。そしてさらには、主張がどうしても対立する相手とも、認め合って共存していく優しさを持たねばならない。
池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽