子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(マルコによる福音書10章15節)
冒頭の「子供のように」とは、子どもの純真無垢なことではなく、他者に依存しなければ生きてゆけない子どもの無力を指している。一人では生きてゆけない子どもは親に全幅の信頼をしている。そのように、自分の無力を知って神に信頼する者でなければ、神の国に入ることはできない。主イエスは神を、幼な子が父親を呼ぶように、「アッパ」と呼んだ。その全生涯において、また、神はおられないのではないかと思える十字架の上でも、主イエスは「父」を呼び、苦しみを耐え抜かれた。「キリストは肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら……祈られた」(へブライ5・7)。
主イエスは心を込めて私たちに天の父のことを語った。「天の父は、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる。まして、あなたがたの天の父は、あなたがたに良くしてくださらないはずがあろうか」と。そして、主イエスは私たちが祈る時には、「天におられるわたしたちの父よ」と呼べと教えた。神は私たちが「お父さん」と呼ぶのを待っておられる、そして、そう呼ばれる時に喜ぶ「天の父」である、と主イエスは教えたのである。神の国は、私たちが主イエスの言葉に促され、主に倣って、神を「アッパ、父よ」と呼ぶ子どもの国である。主イエスは子どもたちを抱き上げて祝福した。子供を抱いている主の姿に、無力な者を顧み、守り、愛してくださる神の国が映し出されている。主イエスに招かれて神を父と呼ぶ御国に生きる私たちは、なんと心強いことであろう。病気の時も、孤独の時も、死ぬ時も、私たちには「天の父よ」と呼ぶ神がおられるのである。