Q.厳格なキリスト者の家庭で育ち、テレビもゲームも制限されていました。子どものしつけについて、キリスト教的な根拠があるのでしょうか?(30代・男性)
子どものころは「家(ウチ)だけどうして?」と、ご両親を恨んだかもしれませんね。でも、今となってはどうでしょうか。ご両親は「厳格なキリスト者」だから制限されたのではなく、テレビやゲーム漬けになっている子どもが多い中で、あなたの心と体の健全な成長を願ってそのようにされたのでしょう。きっと悩んだ末の決断だったと思います。
家庭での教育やしつけに関して模範解答はありません。その都度、その都度、親は悩み苦しみながら、決断し、選択していくのです。たとえ、一時期子どもから恨みを買うことになっても、また失敗する結果になったとしても、親は責任を果たしていかなければならないのです。
ユダヤの古い教えに「父親は息子に律法を教え、仕事を教え、それに水泳を教えよ」というのがあるそうです。律法と仕事を教えるのはわかりますが、水泳を教えるというのはどういう意味でしょうか。それは子どもが将来危機に遭遇したときに自分の力で対処できるように訓練すること、自分のことは自分で責任を取るべきことを教えているのでしょう。親の責任とは世間という洪水の中で子どもが自分で泳ぐことができるようにすることです。
「若者を諭すのを控えてはならない。鞭(むち)打っても、死ぬことはない」(箴言23:13=新共同訳)。むちで死ぬことはなくても、むちがなければ命を失うことがあるということです。
とはいえ、家庭での教育やしつけがいつもうまくいくとは限りません。反抗されたり、正反対の結果になったり、失敗することが多いのも現実です。私自身、子どもの教育やしつけに何度も失敗しては、そのたびに後悔をくり返してきました。「後悔、先に立たず」とはよく言ったものです。そのせいか、いまも「後悔、後を絶たず」の日々です。
ただ、もしやり直しができるものなら、次はきっとうまくやれるだろうという気はするのですが。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。