わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(口ーマの信徒への手紙7章15節)
神は人間を愛に生きる者として創造し、愛に生きるようにと戒めを与えた。それが十戒という律法である。今日の聖句は、神の戒めに従って生きることを願いながら、自分の内には神に従わせまいとする強い罪の力が巣食っているという、使徒パウロのうめきである。律法は本来、人が神の御心にふさわしく生きるために与えられたのであるが、パウロは律法によって自分の罪を知るばかりであると告白する。例えば、「むさぼるな」という律法によって、自分の内にある「むさぼり」の罪を思い知らされる。「隣人を自分のように愛せよ」という律法によって、自分の愛は隣人から「惜しみなく奪う」利己愛であることを思い知らされる。パウロのうめきは、神の御心に従って生きようと願うキリスト者のうめきである。
律法を知らず、神の御心を行うことが人間の正しいあり方であると思わない者には、このようなうめきはないであろう。神の戒めを知らなければ、神の怒りに気づかないで生きられるし、罪に苦しむこともないからである。このうめきは、すでに救われていることの証拠なのである。神の御心を行う信仰に生きようとするから、罪との戦いがある。キリスト者はこの世に生きている限り、この戦いを免れないのみか、この戦いのあることが、信仰に生きている証拠なのである。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。...だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24〜25節)。自分の罪深さを知る惨めさの中で、キリスト者はその罪から解き放ってくださる愛の神に出会う。