兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。(使徒言行録23章1節)
千人隊長クラウディウス・ルシアは「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い」(22・30)、ユダヤの最高法院を招集し、パウロを彼らの前に立たせた。今日の聖句は、パウロがその冒頭で語った言葉である。日本の社会でも良心による宣誓や、「良心に誓って」という言葉がある。良心は人間が生まれながらに持っているものであるが、人間を超えて人間に「このようにあれ」と命じるものと考えられている。それゆえに、「良心が何と言っているか」と問うたり、誓わせたりする。しかし、良心が発信するものは必ずしも自明ではないし、人によってその感度も違うであろう。
聖書で使われている「良心」は、神と「共に知る」という意味である。神の御心(みこころ)を知って、これに従う心である。ゆえに「良心が何と言うか」ではなく、「神の律法が何と言うか」、より正しくは「主イエスが何と言うか」と問い、その意志に従うことが、パウロの言う「良心に従って神の前に生きてきた」という意味である。この言葉の後で、パウロは死者の復活について語るが、「良心に従う」とは、死後、すべての人が神の裁きの前に立つことと深く関係する。パウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。……こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」(24・15〜16)と言う。「良心に従って」生きるとは、神に対して自分の行動に責任を持つことを意味する。そして、復活の希望が私たちを良心的な生き方へと促すのである。