さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。(ルカによる福音10章36節)
律法の専門家が、神である主を愛せよ、また隣人を自分のように愛せよ、これが律法であると答えると、主イエスは彼に「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)と言った。彼が「では、わたしの隣人とはだれですか」と言うと、主イエスは次の話をした。祭司やレビ人は強盗に襲われて傷ついている人を見たが、見ぬふりをして通り過ぎた。ところが、サマリア人は傷ついている人が敵であるユダヤ人なのに、憐(あわ)れに思い、傷の手当てと介抱をして、できる限りのことをした。主はこの話をして、律法の専門家に今日の聖句を語り、問いかけた。彼が「その人を助けた人です」と答えると、主は「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と言った。
「隣人とはだれか」という問いに対して、主イエスは「だれが隣人になったか」と言った。「隣人とはだれか」という問いは、愛さなければならない隣人を限定しようとする。そして、同胞や家族という隣人ならば愛していると自分を正当化する。しかし、主イエスは、隣人を限定しない。苦しんで、助けを必要とする人の隣人になれと言う。主イエスの言葉の前で、私たちは自分の愛の貧しさに気づく。主イエスの話は私たちの隣人愛を問うている。と同時に、私たちの隣人になられた主の愛を語っている。敵であるにもかかわらず、倒れて苦しんでいる者に近づき、最後の最後まで介抱するサマリア人は、私たちの隣人となってくださる主イエスご自身である。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である」(ヨハネ15・12)。