イエスさまと歩むと、歩いても疲れない
2017年6月25日 イエスのみ心の祭日ミサ
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私の軛を負い、私に学びなさい。
マタイ11:25~30
今日は本来、年間第12主日ですが、(当時、主任司祭を務めていた)麻布教会は「み心教会」なので、先の金曜日が「イエスのみ心の祭日」ということで、「イエスのみ心」のミサを今日、一緒にお祝いします。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(11:28)
「休ませてあげよう」とイエスさまが言われるのは、ご自身がその完全な「休み」にあずかっておられたからです。
「私は柔和で心のへりくだった者だから」(29節)と言われます。「山上の説教」の中で、「へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と言われますが(5:5)、それは「永遠のいのちを受け継ぐ」という意味です。「心のへりくだった」という言葉は「タペイノス」という貧しさで、山上の説教では「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)と言われています。
つまりイエスは、柔和で心がへりくだり、神の国を受け継ぎ、神の国のいのちの安らぎの中に入っておられるので、その安らぎを与えることがおできになるのです。
さて、イエスさまはその休みを与えるために、一つのことを命じておられます。
「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい」(11:29)
そして、「そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる」と言われます(同)。つまり、「私の軛を負い、私に学ぶ」と、「この私の安らぎに一緒にあずかることができる」と言われるのです。
「軛」とは、牛や馬などの家畜を2頭横に並べて、首のところを連結する道具です。そして、鋤(すき)などをつけて土を掘り返したりするのです。
イエスさまは「私の軛を負いなさい」とおっしゃいます。「私の軛」とは、つながれた隣におられるのがイエスさまということ。イエスさまが一緒に負って歩いてくださるのです。
「何でこんなことをしなきゃならないのかな」と思うけど、イエスさまは隣で淡々と負ってくださる。最初は嫌々負っていても、イエスさまが上手に負ってくださるので、足の運び方も慣れてきて、呼吸も整って、「このままなら100キロ歩けるかもしれない」……。それがイエスさまの軛です。
「私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる」と言われます。これは、本当にそのとおりだと思うんです。
イエスさまと一緒に歩くとき、困難な事態に出会った時も、負けずに歩むことができます。私たちが身構えてしまったり、つっぱねたくなってしまったりするようなことや、「なぜ、どうして」と理由が分からないことにも、イエスさまと一緒に歩くことで、もっと歩けるようになっていく。それが、イエスさまが与えてくださる歩みであり、安らぎなのだと思います。
最後に「イエスさまの荷」というのが何なのか、ちょっと考えてみましょう。
私たちが放っておくと自然に負ってしまう荷とは、人の中に欠点や、気に入らないことや、「なんであの人はそう考えるんだろう」とか、そういう悪いことを見つけ出してしまうことだと思います。自然に、たやすく負ってしまいます。
でも気がつくと、背負いきれない荷になって、前にも後ろにも動けなくなって苦しくなってしまうのです。それはイエスさまの荷ではありません。
「イエスさまの荷」とは、「人間の中に神さまが一緒にいてくださる」という真実を認め、祈り、そしてそのことを人に告げるという「荷」なのです。
この荷は、一見たいへんそうに見えて、実は負いやすいのです。負う練習をすると、荷は軽く負えるようになります。そして、「もっと負おう」という気になってくるんです。そうすると、たくさんお祈りをしても、もっとお祈りができるようになり、歩めるようになってきます。これが「私の荷は軽い」という言葉の意味だと思います。
そうすると、私たちはイエスさまの安らぎに入ります。
今日、帰る道すがら、すれ違う人に「神さまがあなたと共におられます」って祈ってみてください。その荷は負いやすく、軽く、安らぎをいただけます。なぜなら、そう祈るとき、軛以上の密接なつながりをもってイエスさまが私の中で祈ってくださるからです。そして、イエスさまの中で神さまが共に祈ってくださるからです。
「神さまがあなたと共におられます」と祈って、イエスの荷を負ってイエスと共に歩くとき、安らぎを得られます。なぜなら、イエスと共に、神さまと共に歩むからです。その歩みは、「走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない」(イザヤ40:31)のです。
今日、その歩みに入って生きる1日になりますように。ご一緒にお祈りしたいと思います。