信仰は体験の世界
出来事に始まり、出来事に終わる。聖書を読めば、誰でもがそう感じる。
新聞を読んでいると、思いがけない出来事のニュースが飛び込んでくる。文芸欄や教育的な記事は別として、出来事を知らせるのが新聞というものである。
ただし、聖書の出来事を記した記事は、もともと文献や道徳訓として書かれてはいない。聖書の出来事は、〈わたしの救い〉のために神が起こされた出来事である。聖書はこれを〈喜ばしいニュース=福音〉として告知する。だからこそ、聖書が何を伝えようとするのかに耳を傾けねばならない。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言う(ローマ10:17、新共同訳)。
最も典型的な聖書箇所を見て見よう。「小さな福音書」と呼ばれるヨハネ福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。〈わたし〉のために神が起こされた救いの出来事を〈喜ばしいニュース=福音〉として聞くために、福音書記者ヨハネは壮大な救いの出来事を簡潔な言葉で言い表した。
すべての人に独り子が与えられ、すべての人が愛され、すべての人が永遠の命にあずかる救いの出来事が起こったことを告げる〈喜ばしいニュース=福音〉がわたしたちに告知されている。これを〈わたし〉のこととして聞くことによって、その福音を信じる信仰がわたしの中に起こる。信仰は、福音を聞くという体験から始まる。
そもそもわたしたちは、信仰を表明するために洗礼を受ける。試験を受けることはない。信仰を持つにあたっては、理解することが前提になってはいないからである。もし信仰をどれだけ深く理解したかが重要であるなら、洗礼を受けるにあたって試験が課せられるかもしれない。そうなれば、70点の信仰、80点の信仰とランクづけされる。しかし、洗礼を受ければ、人はすべて信仰者となる。洗礼は一方的な神の恵みの体験である。信仰者は洗礼を出発点として、そこから成長していくのである。洗礼は「入門のサクラメント」、聖餐は「養育のサクラメント」であるとも言われるが、洗礼にせよ、聖餐にせよ、神の恵みを体験する儀式である。もちろん、そこにはいろいろな準備が伴うであろうし、その後の成長が期待され、信仰者それぞれに相応(ふさわ)しい成熟性が求められるのは当然である。
ハイデルベルク信仰問答の第1問には、「あなたにとって生きる時も死ぬ時もなくてならぬ、唯ひとつの慰めは何ですか」との問いかけがある。それに対し、「キリストのものとされることです」と答える。そこには、キリストが〈わたし〉をご自分のものとしてくださる体験の世界が信仰告白の中枢となっている。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言い、ルターはこれを取り上げて、「もはやパウロは死んだのです。生きているのはキリストです」(ルター著『ガラテヤ書大講解』)と告白した。信仰を体験すればこそ言い得た言葉ではないだろうか。