隣人となってくださった神さまと一緒に
2016年7月10日 年間第15主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしの隣人とはだれですか
ルカ10:25~37
「永遠の命」(ルカ10:25)について、イエスを試そうとした律法の専門家とイエスさまとでは考えがまったく違っていました。
律法の専門家は「永遠の命」を、何か良いことをした時にもらえるご褒美(ほうび)のようなものと考えていたみたいです。でも、イエスさまの考える「永遠の命」とは、もうすでに一緒にいてくださる神さまと一緒に生きることでした。
だから、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と聞かれた時にイエスさまは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねられたわけです(25~26節)。
すると、律法の専門家は答えました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(27節)。これは、「全身全霊をもって神さまを愛しなさい」ということです。
また、「隣人を自分のように愛しなさい」と答えました。これは、「人を自分のように愛しなさい」ということです。
するとイエスさまは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました(28節)。
「神を愛し、人を愛すこと」。これが律法における最大の掟(おきて)です。でも、神さまを愛し、人を自分と同じように愛することを私たちは自分の力ではできない……。これが、聖書全体が私たちにはっきりと教えていることでもあります。
それにしても、「全身全霊で神さまを愛する」とは具体的にはどういうことなのか私たちには分かりにくいので、こう言い換えたらどうでしょうか。神さまが私たちを愛してくださっていることを全身全霊で認めること。これが「神を愛する」ということだと思います。
自分のまわりに良くない状況があっても、または自分の中に不安や心配があっても、全身全霊で神さまが愛してくださっていることを認めること。これが「神を愛する」ということだと思います。
そして、「隣人を自分のように愛する」とは、目に見える隣人を神さまが愛してくださっていることを全身全霊で認めることではないでしょうか。
自分の意に沿わないことを言ったり、やってきたりする人を神さまが愛し、その人の中に神さまが一緒にいてくださることを認めること。これが「隣人を自分のように愛する」ことだと思うのです。
しかし、それが私たちにはできない。
今日の後半のたとえ話に登場してくる、追いはぎに襲われて服をはぎ取られ、殴られて半殺しになり、もう動けずにいた(そのままでは死んでしまう)人とは、たぶん私たちのことです。「自分が神さまに愛されている」と認めることができず、また「人が神さまに愛されている」とも認めることができず、身動きもできずに倒れているのは私たちなのだと思うのです。
その私たちを憐れに思って、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、ロバに乗せて運んでくれ、宿屋に行って介抱し、翌日になったらデナリオン銀貨2枚を渡し、宿屋の主人に「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言ってくれるサマリア人とは、イエスさま、そして神さまのことです。
このサマリア人はデナリオン銀貨2枚を払ったのですが、考えてみてください。イエスさまは、倒れている私たちを救うためにどれだけお金を払ったか、ご存じですか。
イエスさまは言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)
イエスさまが払われたのは、デナリオン銀貨2枚どころではなく、身代金としてご自分の命のすべてでした。そうやって私たちを立ち上がらせるために助けてくださったのがイエスさまです。
イエスさまは復活して聖霊を注ぎ、今、私たちの中に立ってくださいます。時には、完全におんぶしてしまうまでに私たちを運んでくださいます。そのお方と私たちは一緒に生きさせていただいているので、今日、イエスさまは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるのです(ルカ10:37)。そうすれば、命が得られるからです。
今までにもし、自分が誰かを助けることができていたとしたら、それは共にいるイエスさまがしてくださったことだと思います。そのことに励まされて、また立ち上がって生きていくことができます。
また、イエスさまが一緒に生きてくださっていることに気づかせられたら、そのイエスさまと一緒の向きで生きて、人を助けることができると思います。
何よりも、目の前にいる人に神さまが一緒にいてくださることを認めて生きる者になりますように。お祈りをしたいと思います。