甘えと愛を混同しない
教会は言うまでもなく。愛の共同体である。ところが、我々日本人は一般に甘えを持っている。社会全体に甘えがあり、一つひとつの社会、例えば会社にも、学校の教師と生徒の関係にも、また友人関係、同僚の関係、そして夫婦の間にも甘えがある。甘えが許されないような関係は、冷たいとか愛がないと思うのである。
これは、教会の中にもそのまま適用できる。甘えが許されないと「この教会は愛がない」「牧師は愛がない」「誰々さんは愛がない」ということになる。教会にとって「愛がない」とは一大事である。教会であるかどうかということであるからこれほど強力な言葉はないのである。
「愛がない」と言われて、「愛があります」などと言える人はいないから、「甘え」を認めるようになる。そうすると教会は「愛」の名の故に最も「甘えの共同体」になってしまうのである。牧師は兄姉に甘え、兄姉は牧師に甘え、兄姉同士も甘えという構図になる。そして「わたしたちの教会は愛に満たされている」となる。
しかし、これは甘えと愛とを混同しているところから来ることである。甘えと愛は似て非なるものである。コリント人への手紙第一に、「愛の讃歌」と言われる次のような節がある。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」(13章4節)。この「愛」のところに「甘え」を入れると、「甘えは忍耐強い。甘えは情け深い。ねたまない。甘えは自慢せず、高ぶらない」となる。これでは意味が通らない。愛と甘えは似ているようで、まったく対極のことだということがわかる。
教会はどこまでも愛の共同体である。愛の共同体となっていくためにはこの愛と甘えを混同しないことである。混同すると先述のように教会は他の社会以上に「甘えの共同体」になり、他の社会でも考えられないような異常な社会になり、また、異常な人間関係の群になる。
しかし、キリスト者や教会が甘えではない愛の共同体となるとき、人々は日本人や日本社会にはない「愛の共同体」に驚き、目を見張るに違いない。つまり、愛と甘えを混同の危機は、この社会に生きる人たちへの宣教の好機でもある。
互いに愛し合う
教会が愛の共同体であるということは、何よりも神がまず我々を愛してくださった故にある共同体であるからである。この神の愛によって愛されている者として、神を愛し、この神の子とされた我々が兄弟姉妹として互いに愛する共同体である。
ところが、互いに神の愛で愛し合うはずのお互いが、この世の社会と同じように互いに比較したり、ねたんだり、ひがんだり、逆に高慢になったりするのである。決して口では言わないが、内側では互いに競争意識が渦巻いているのである。一教会内だけでなく、牧師は他の牧師と、教会は他の教会と競争意識を持つのである。主イエスと共に歩んだ弟子たちがそうであったように。
新約聖書には「互いに愛する」と20回も記されている。互いに愛するということは、「愛の共同体」である教会の生命線である。
教会史家ヒエロニムスは使徒ヨハネの最後の言葉として、次のように伝えている。
ヨハネの臨終に際し、弟子たちが最後のことばをヨハネに求めた時、ヨハネは「子たちよ、互いに愛し合いなさい」と何度も繰り返した。弟子たちが言い残すことはそれだけかと尋ねると、「それで、十分だ。何となれば、それが主の戒めだから」と答えた。
教会がこの世にはない神の愛、キリストの愛によっての共同体になることを求めていこう。牧師と教会員の関係においても、教会員と教会員の関係においても、この、神とキリストの愛によって互いに愛し合う共同体、つまり教会になり続けたい。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネによる福音書15章12節)
(おわり)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。
【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第10章 牧師交代時の危機 違いを比較するのではなく認識する 細川勝利 2014年6月28日