20世紀10人の殉教者の一人――王 志明 劉 燕子 【この世界の片隅から】

ウェストミンスター寺院は昨年5月6日にチャールズ国王の戴冠式が挙行されたところである。そこでは歴代の国王・女王の戴冠式が行われてきただけでなく、万有引力を発見したニュートンや作家のディケンズたち著名人が埋葬されており、内外に広く知られている。

このウェストミンスター寺院の西廊入口の上には20世紀10人の殉教者の立像が並んでおり、その一人に王志明(1907~73年)がいる。彼は雲南省武定県のミャオ族の牧師であった。ミャオ族の居住地は雲南でキリスト教が最も早く広がった。ミャオ族は漢族の儒教的世界観や祖先崇拝を持たず、宣教師は生活改善を通してキリストの救いを説いた。

王志明の家系は3世代にわたり伝道者を出していた。彼は1945年に昆明に赴き、賛美歌をミャオ族の言葉に翻訳する一員となるなど、布教に励んだ。

王 志明

ところが、中国共産党が政権を掌握すると、プロテスタント系の諸教会は帝国主義との関係を断つという理由で「三自愛国教会」(三自=自治・自養・自伝)に統合された。しかし、王志明は信仰の自由を守るために「地下福音活動」に入った。彼は1954年にスパイとして逮捕されたが、56年には中国共産党の統一戦線の一環の「対外的な宣伝」のため釈放された。

文化大革命が発動されると、宗教活動は厳禁され、施設が破壊され、聖書や信仰書籍が焚書される一方で会堂に毛沢東の肖像が掲げられた。これに対して、王志明は「毛沢東一神教」、「偶像崇拝」を批判し、納屋や山中の洞窟で密かに礼拝や家庭集会を開いた。しかし、1969年に逮捕され(4度目)、激越な批判闘争会にかけられ、侮辱や拷問を受けて死刑判決を下された。

ミャオ族の聖書

1973年12月28日、公開処刑の前日、家族は王志明と面会できたが、看守は「普通話(標準中国語)で話せ。ミャオ族の言葉は使うな」と命じた。王志明は家族に対して「お上のいうことを聞きなさい。清潔にしなさい。いつも注意しなさい」と語っただけだったが、家族は、「主のみ言葉に耳を傾け、魂を清め、いつ主が来てもいいように目を覚ましていなさい」という意味だと悟った。

当日、王志明は水に濡らした鞭で打たれ、がんじがらめに縛られて処刑場とされた中学校のグラウンドに引き立てられた。首の前には罪状とまっ赤な×印の付けられた名前が書か れ た 板、後ろには「銃殺」という板がぶら下げられていた。

取り巻く群衆の「打倒しろ」「叩き潰せ」などの怒号を浴びながら王志明は縄を解かれた。妻は夫に近寄り、血まみれの手に煮卵を六つ渡した。王志明は妻の両肩や頭の上から下まで優しくタッチして六つの煮卵を受け取ると、三つ返した。「三」は三位一体を意味し、卵はイースターエッグのように復活の象徴であった。

公安当局は王志明が極悪非道で死んでも罪をあがないきれないため「革命群衆」の強い希望により「遺体を徹底的に処分(爆破で粉砕)」するから、処刑に立ち会うなと命令した。妻は「墓は建てません。絶対に目立つようなことはしません。是非とも遺体を引きとらせてください」と懇願したが、聞き入れられなかった。仕方なく家族は帰宅し、一晩中祈り続けた。

翌朝、民兵が「遺体を片付けろ」と伝えに来た。午後一時頃、家族は全身めちゃくちゃに撃たれた遺体を馬車に乗せて帰って来た。ミャオ族の人々は道ばたに三々五々集まり、馬車に向かい黙祷した。墓地に着くと、「騒乱を起こさないように」と配置された民兵に囲まれる中で、家族は遺体を埋葬した。

ミャオ族の信徒。作業の合間に賛美歌を歌っている

約3千人ほどしかいなかった武定県の信徒は、文革終息後には1万2000人にまで増加していた。また、1979年、王志明の「名誉回復」という一枚の紙片が遺族に送られてきた。

1998年、ウェストミンスター寺院から英文の書類が届いた。息子の王子勝牧師は「(反革命)黒五類の子女」と差別され、小学校しか出ていなく、英語が読めなかったが、父親の王志明が10人の偉大な殉教者の一人となっていることを知った。2002年になり、ようやくウェストミンスター寺院の西壁面に立つ王志明の彫像の写真を村の青年が持ってきて、村人はそれを目の当たりにすることができた。

2016年、インディペンデント監督の胡傑はドキュメンタリー映画『麦地 衝的歌声(Songs from Maidichong)』を制作した。実にたくましく信仰を守り続けて生き抜いたミャオ族の「潜伏キリシタン」が心に沁みる澄んだ歌声で賛美歌を唱和している。

まことに「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ1:5)を想わせる。

劉燕子
リュウ・イェンズ 作家、翻訳家。中国湖南省出身。神戸大学等で非常勤講師として教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。専門は現代中国文学、特に天安門事件により亡命した知識人(内なる亡命も含む)。日本語編著訳『天安門事件から「〇八憲章」へ』『「私には敵はいない」の思想』『劉暁波伝』ほか多数。

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