役所広司が木造アパートに暮らす公共トイレ清掃人を演じ、ヴィム・ヴェンダースが撮る。首都高を通勤する場面では、ルー・リードやパティ・スミス、ニーナ・シモンやローリング・ストーンズらによる往年の名曲群が、カーステレオ音源という設定で流れつづける。都心の高架道路を走り抜ける役所広司の運転するバンの窓ガラスを朝焼けが照らし、夜の摩天楼がきらめかせ、あるいは夕陽の赤色が灼きつくす。
映画『PERFECT DAYS』で役所が演じる主人公の平山は、渋谷区の公共トイレを清掃して回る。その勤務態度は実直そのもので、二十は歳下の同僚青年から「真面目すぎるんですよ。どうせすぐ汚れるんだから」などと呆れられる。勤務後は昭和の雰囲気が残る浅草駅地下街の呑み屋で馴染みの店主が出す酒を軽くあおり、他の客たちや駅通路の雑踏を静かに眺める。
仕事場である公園の樹下に木の芽を見つけると大事に持ち帰り、アパートの一室で苗木へ育てる。木造アパートの布団を敷く六畳間の端には、文庫本が長く列をなして並んでいる。ウィリアム・フォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』。世の流行とは無関係にただ己の嗜好のおもむくまま、それら往年の名作群を眠る前に読み耽る。朝がたは、向かい家の路面を老婆が掃く箒の音でいつも目覚める。
くり返される、穏やかな日々。ヴィム・ヴェンダースは、主人公の平山を「こう生きてみたい理想の人物像」と表現する。25歳で長編映画の監督デビューを果たしたヴェンダースは、ロードムービーの名手として注目を浴び毎年のように映画を発表し続け、30代の終わりには『ことの次第』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(最高賞)、『パリ、テキサス』でカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を獲得。以降も精力的に映画製作を続け、キューバ音楽を取材するドキュメンタリー名作『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』や、アマゾン他に取材した『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』を始め世界を駆け巡ってきたヴェンダースにとって、ひと所に住み続け、同じ日々をくり返す平山の暮らしは、いくら望んでも手に入らないまさに理想の人生なのだろう。
映画監督を志す人間ならずとも、その華々しい履歴に若い頃一度は憧れる者も多いだろう世界的巨匠のヴェンダースが、ありふれたトイレ清掃人の暮らしを羨むという転倒。しかしこれが転倒に映る眼差しにこそ、ここでは疑いを差し挟むべきなのかもしれない。古びてはいるが、清潔に整えられたアパートの室内。毎朝同じ時間に同じ缶コーヒーを買う際に立てられる自動販売機の音。同じ公園の、同じ樹の下でいつも会う浮浪者姿で舞うミステリアスな老人や、同じベンチで弁当を食すOLからの不思議な眼差し。描かれる平山の毎日は、一見同じくり返しのように映るからこそ、そのうちに張り切った充溢もまた見出される。
そして映画は中盤から、平穏な日々の響かせる静かな旋律に、幾つかの角度から不協和音が混じり始める。不意の訪問者が訪れる。物語は日常のサイクルを維持しながらも、意外な方向へ進みだす。
ここから先の展開はぜひ映画館でご覧いただくとして、さて登場する十数箇所に及ぶトイレ建物の逐一が、いわゆる「公衆便所」のイメージからはかけ離れた未来的でユニークな形状を成すことに、ふだん渋谷と縁のない人間の多くは驚くかもしれない。これは槇文彦や隈研吾、安藤忠雄や伊東豊雄、坂茂や藤本壮介といった日本を代表する建築家に加え、佐藤可士和、NIGOら各界のデザイナーらにより各々オリジナルのトイレが設計設置される、ユニクロの柳井康治発案の渋谷区公共プロジェクト“THE TOKYO TOILET”だ。
世界的な映画監督を招致し、日本を代表する映画俳優が主演し、東京の中でも最も先鋭的で目にも鮮やかな渋谷の一端景と、東京有数の観光スポットである浅草やスカイツリー界隈とを高速道路のカットで結ぶ設えは、その下地へいかにも広告代理店的な発想を窺わせる。すでに前評判の段階でそこに嘘臭さを看取した酷評も散見されるのだが、ここはどうか作品を実際に観てから判断してほしい。ヴェンダースは、そのような代理店的企みを拒絶することなくむしろ利用して、その先でなければ手にし得ない果実を本作で確かにつかみ獲っている。
「林じゅうがぬれているのに、そこは乾いていた。古木の芯とおぼしい部分は、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。指先が濡れて冷えていたからこそ、逆に敏感に有りやなしのぬくみと、確かな古木の乾きをとらえたものだったろうか。(略)この古い木、これはただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。生死の継目、輪廻の無惨をみたって、なにもそうこだわることはない。あれもほんのいっ時のこと、そのあとこのぬくみがもたらされるのなら、ああそこをうっかり見落さなくて、なんと仕合わせだったことか。このぬくみは自分の先行き一生のぬくみとして信じよう、ときめる気になったら、感傷的にされて目がぬれた。木というものは、こんなふうに情感をもって生きているものなのだ」(幸田文『木』収録「えぞ松の更新」より)
その一方、この秋催された第36回東京国際映画祭において審査委員長として来日したヴィム・ヴェンダースは、2023年の新作をもう一本携えて東京へと降り立った。戦後ドイツを代表する美術作家アンゼルム・キーファーの過去と現在を描く3Dによるドキュメンタリー作品『アンゼルム』(Anselm)がそれである。
『PERFECT DAYS』が、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手としてのヴェンダースを記憶する古い映画ファンを喜ばせ、そして翳りを隠し得ない今日の東京を新たな角度から切り取る鮮やかさをその座組だけで誰にも予感させるのに対して、現代美術作家のアトリエをこの老巨匠がいまさら3Dで撮ることに、いまいちピンと来ない人間はヴェンダースのファンでさえ多いかもしれない。しかしそれは、3D映画をめぐるヴェンダースの挑戦がこの日本では正しく紹介されて来なかったゆえの誤解を含む反応といえる。
実際、雪深い地での内面への旅を描くヴェンダース2015年作『誰のせいでもない』は国内においてごく一部の映画館でしか3D上映が実施されず、コロニアル様式の邸宅で時間への旅を経巡る2016年作『アランフエスの麗しき日々』に至っては、ただの一度も3Dの一般上映は為されなかった。ここには、日本の映画業界が今日抱える興行上の困難も深く影を落とすため止むを得ない面はある。しかし2011年作『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』以降のヴェンダースによる3D採用は、役者の顔面を大きく捉え、表情の皮膜の向こう側をもスクリーンへ現象させようとする試みとして、従来のハリウッド娯楽作などが取り組んできた賑やかし/驚かしの3D表現とは方向性のまったく異なる独創性を深め続けた。
また、世界史上ではリュミエール兄弟の影に隠れる形となったビオスコープの発明者スクラダノウスキー兄弟を扱う1995年作『ベルリンのリュミエール』や、スキップ・ジェイムスら百年前に遡ってブルースの歴史を汲み取る2003年作『ソウル・オブ・マン』などヴェンダースが撮るドキュメンタリーの系譜もまた日本での知名度は至って低く、海外での評価は極めて高い2018年作『ローマ法王フランシスコ』も、映画祭を除き国内での一般上映は為されなかった。
『アンゼルム』は、これら3D探究の道行きと、ドキュメンタリー制作の系譜という両面を併せもつ、まさにヴェンダースの生涯をかけた挑戦の最先端に位置している。この点は『ヒューゴの不思議な発明』におけるマーティン・スコセッシによる3D方式への挑戦にも似て、個別の表現を長年研ぎ澄ませた結果として到達した彼ら老練たる創り手たちの境地へ、世の観客・批評家ら、そして配信サイトの興隆により勢いに乗る世界の若手監督らでさえまったく追いつけていないと言える。
役所広司の演技が一瞬で場を支配し、他の役者の名演を引き出す様が圧巻というしかない『PERFECT DAYS』と、孤高の探究において最長不倒距離を再度更新した『アンゼルム』。今年78歳となったヴィム・ヴェンダースの冒険は、まだ終わるには程遠い。
(ライター 藤本徹)
『PERFECT DAYS』
公式サイト:https://www.perfectdays-movie.jp/
2023年12月22日よりTOHOシネマズ シャンテほか全国にて公開
『アンゼルム』 “Anselm”
公式サイト:https://2023.tiff-jp.net/ja/lineup/film/3604WFC02
2023年11月1日 第36回東京国際映画祭にて上映
*引用文献:幸田文 『木』 新潮文庫
【関連過去記事】
【本稿筆者による関連作品別ツイート】
“PERFECT DAYS”🌃
いい映画を観た満足感しか。
ヴィム・ヴェンダース新作は、時間と音楽の濃厚な豊醇作。役所広司演じる公衆トイレ清掃人が、市井の哲人と化し東京の今を質実に映しだす。⌛️
田中泯の端役はベルリン天使だし、夜の首都高で“パリ、テキサス”&“東京画”を更新する衰えなき膂力に震撼。 https://t.co/0J51QErOLF pic.twitter.com/RLkSOZ1QoI
— pherim (@pherim) October 23, 2023
これより『ゴジラ-1.0』。
てか朝イチでみたヴェンダースの『アンゼルム』がヤバすぎた。キーファーの工房を撮る3D映画なんだけど、日本でほとんど上映機会のないヴェンダース3D履歴の頂点を更新する圧倒感。今年の #東京国際映画祭 一番の驚き。#ゴジラ #ゴジラマイナスワン #TIFFJP https://t.co/OxaeN86ZHc pic.twitter.com/y8QZXW6WpL
— pherim (@pherim) November 1, 2023
『世界の涯ての鼓動』
ヴィム・ヴェンダース新作。混迷の死地で原理主義の暴力に対峙する男と、光届かぬ超深海で探求を続ける女との邂逅は、それ自体が世界の神秘へ通じる隘路を予感させ刹那的で幻想詩的。ジェームズ・マカヴォイとA・ヴィキャンデルが、交錯しつつ混じり合わない魂の孤独を凄演する。 pic.twitter.com/LnqJg8VUEH— pherim (@pherim) July 27, 2019
『アランフエスの麗しき日々』
夏の午後、木漏れ日のもと繰り広げられる男女の会話を主軸とするヴィム・ヴェンダース監督新作は、ペーター・ハントケの戯曲映画化。『ベルリン・天使の詩』以来となる二人のコラボ作品は、言葉と画による映画の再構築を志す意欲作。この抑制の内なる沸騰、まさに矍鑠。 pic.twitter.com/aeQIq8eMZm— pherim (@pherim) December 25, 2017
『誰のせいでもない』では、俳優がガラス越しに手前と奥を足繁く往還し、表情の立体視とも連なり3Dによる物語の心理的伝達が試みられている。ヴェンダースファンの多くは『パリ、テキサス』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』など初中期作を好むだろうが、老いて益々壮んな彼を実感できる一作。 pic.twitter.com/oCs4gkO5ej
— pherim (@pherim) November 15, 2016
『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』ヴィム・ヴェンダース監督新作。彼の撮るドキュメンタリーが孕むこの小気味良さは何なのか。極限の生命を写真へ切り出すサルガドの手つきに迫る。情熱の再燃と森林再生が重ねて語られる後半は特に圧巻。https://t.co/MEWY8pdCQ7
— pherim (@pherim) August 20, 2015