今から10年前の2013年3月、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は第266代ローマ教皇フランシスコに即位した。イエズス会出身者、および中南米出身者として史上初の就任となった彼は、以降の9年間で37回もの旅へ出かけ53カ国を訪れた。映画『旅するローマ教皇』で、教皇の旅路へ随伴し自ら撮影する一方で、バチカンより提供された500時間もの記録映像からひと筋の流れをすくい上げ、一篇の物語へと編み上げたジャンフランコ・ロージ監督へ話を聞いた。
「教皇の旅へ随行すると、実際に起きていることへその場で反応することができます。この点が、記録映像の利用とは大きく異なりました。たとえば沈黙のうちに過ごす教皇の落ち着き払った表情は、外遊の様子をとらえる既存の記録映像には存在しませんでした。瞑想へ入る教皇とのほぼ二人きりの時間にも、予想外のことがいくつか起きています」
黙想する教皇をとらえた映像は、本編の終盤に登場する。それは一人きりで身を屈め一心に祈りを捧げる、これまで公にされることのほとんどなかった教皇フランシスコの強い孤独を捉えた映像となっている。
ロージ監督は、バチカンを内包する大都市ローマの郊外を舞台とする2013年作『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』で、ドキュメンタリー作品としては初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得した。その2013年に、教皇フランシスコ就任後初の旅の目的地とされた地中海のランペドゥーサ島を、ロージ監督は2016年の第2作『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』の舞台としている。
『旅するローマ教皇』で大きく扱われる教皇のランペドゥーサ島と中東への訪問は奇しくも、ランペドゥーサ島の難民模様を描いた2016年作から、中東各国の紛争地を撮る2020年作『国境の夜想曲』へ至る監督の道のりへ重なるものとなった。たとえば『海は燃えている』は導入部で、アフリカ北岸に発した難民船からのSOS無線が伝える混沌とした騒擾と、島民側の清潔で静謐な生活空間とを対比的に描く。この導入部映像とSOS無線の壮絶な声音とが『旅するローマ教皇』冒頭でもそのまま流用され、ロージ監督の作品履歴と教皇フランシスコの足跡とが互いに地続きであることが強調される。
「『旅するローマ教皇』では、映画のなかで言葉には拠らない対話を実現し、監督としての視点を加えたいと思っていました。たとえば先に述べた終盤のシーンで教皇フランシスコは、祈りを終え立ち上がると数歩すすんで、フォーカスが合わないなかフレームの外へと出ていく。その瞬間のうちに、9年間のすべてを凝縮することができたと感じました。9年の重みと孤独がすべて懸かる瞬間。沈黙のなかで宙吊りとなる強い孤独感。すべてをワンカットのうちに収めることができた。これは外面だけを撮る公式の記録映像のみからは実現不可能なことでした」
ロージ監督の作品ではこのように、しばしばフォーカスの合わない映像や長回しのショットが登場する。このことから現在進行形の紛争地も取材地域に多く含む『国境の夜想曲』公開時には、その美的に洗練された映像を批判の対象とする映画評が散見された。紛争や惨事を美しく描くことへ反倫理性さえ見いだすこうした批判についてロージ監督は、しかしジャンルとしての〝ドキュメンタリー〟に対する偏見を鋭く読みとり、こう語る。
「ドキュメンタリー映画では、手ブレした荒々しい映像こそがリアルだと高く評価される一方で、たとえばキューブリックの劇映画が美しいことを理由に酷評されることなどあり得ません。手ブレがあるから現実だというシネマ・ヴェリテ以降の慣習は思想的な詐術、欺瞞だとわたしは考えます。わたしの映画製作における重点は映画ジャンルの区別ではなく映像言語そのものにあり、この意味ではあるイタリア人記者が書いた《ロージ作品は戦争の悲惨を、作品の内へ永遠に留めた》という評価が最もしっくりきます」
これに関連し想起されるのは本作中盤に登場する、カナダで先住民へ謝罪する場面である。文化的虐殺という強いことばを使って教皇は謝罪するが、先住民コミュニティの全員がその謝罪を受け入れるわけではないことは、あらかじめ想定されていた。この場面でも教皇をとらえる映像は後半でぼかされるが、こうした演出をロージ監督は、「現実の精細な映像よりも言葉が大事です。言葉を立たせるため、映像をぼかし、先住民の声をかぶせた。教皇の頭の中を再現するように」と語る。その一方、現場では文化的虐殺の実相を理解することができる1930年代40年代の写真が掲示されていたため、監督はこれらのオリジナル写真を入手して本編中に挿入し、抽象性と具体性との均衡を図りもした。
「教皇フランシスコは政治的リーダーとして、世界の他の政治家がまったく近づけないテーマについて語ることのできる唯一の存在です。この世界では今、人々に人間であることを反省させるような言葉をもつ政治的リーダーは他に存在していません。教皇が宇宙飛行士へ語りかけるシーンがありますね。宇宙からみた地球の、国境線など実在しない理想のヴィジュアルと、現実にいまこの瞬間にも地上で進行している戦争が証明する現実の過酷さとのズレ。ハッピーエンドとか逆さまの現状、軸が転倒した世界。冒頭で夢や希望を語りつつも、現実に進行する戦争を前に、鋭い孤独と敗北感を孕んで映画は終わります」
製作期間中に起きたロシアのウクライナ侵攻によって、本作は全体の構成をめぐり大幅な再考を迫られたという。結果として終幕部ではフランシスコの祈りうずくまる姿が長回しで映しだされ、祈りの言葉がしずかに囁かれる。「カインの手を制止なさったように、我らの行為を阻みたまえ、とどめたまえ」。 それは冒頭部において、神への祈りを叫んで途切れるSOS無線の名もなき男の声音と見事に呼応する。
2014年にドンバス地方で紛争が勃発して以降、教皇フランシスコは事あるごとに世界各国で戦争の危険を警告してきた。2016年キューバで実現させたロシア正教会のキリル総主教との歴史的会談においても、教皇はドンバスについて話し国際社会へ注意喚起を促していた。にも関わらず戦争はまた起き、フランシスコは苦悩を深める。ロージ監督は本作で、教皇の宗教面ではなく、政治的側面を捉えたかったと語る。世界のどの政治家にも不可能な仕方で政治的に活動するひとりの人間としての教皇フランシスコ。本作のすべては、明るく陽気な人柄で知られる現教皇が終幕で見せる、孤独の相へと集約される。イエス=キリストと一体となる喜びとはまた別の次元で現象するそれは、社会的存在として唯一無二の「ローマ教皇」という役割を引き受けた者の孤独である。
(ライター 藤本徹)
『旅するローマ教皇』 “In viaggio”“In Viaggio: The Travels of Pope Francis”
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/tabisuru/
2023年10月6日(金)より、Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー。
【関連過去記事】
【映画評】 ルーシの呼び声(2)『チェルノブイリ1986』『インフル病みのペトロフ家』『ヘイ!ティーチャーズ!』『ドンバス』ほか 2022年5月20日
【本稿筆者による関連作品別ツイート】
『旅するローマ教皇』🇮🇹 ✈️
教皇となり南米からバチカンへ入った男の旅路へ、紛争下エリトリアからイタリアへ脱出した男が随伴する。
ジャンフランコ・ロージ監督の眼差しは、就任後9年で53カ国を訪れた教皇フランシスコの熱意と陽気さの奥向こうに、唯一無二の政治性を引き受けた者の孤独を捉える。 https://t.co/VrU54JtL8I pic.twitter.com/JxmzKyUZZl
— pherim (@pherim) May 31, 2023
『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』。ローマを囲う大環状道路の周縁で暮らす人々。そこには観光都市ローマのイメージからはほど遠い、汗臭くも異様な人間模様が展開され。まとまらない人生の切り取られたディティールたちを、淡々と覗き見る90分。https://t.co/LYqOfk1VrC
— pherim (@pherim) September 8, 2014
『海は燃えている』
島民の数を超える難民が毎年漂着しつづけるチュニジア沖の伊領ランペドゥーサ島。『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』監督ジャンフランコ・ロッシによる、島民の日常と難民の窮状との並置。その視線が孕む隔てなさの慈悲と残酷。https://t.co/iPV8cvIQmd— pherim (@pherim) February 9, 2017
『国境の夜想曲』“Notturno”
ジャンフランコ・ロージ監督新作。
同監督名作『ローマ環状線』から『海は燃えている』の地中海経て混迷の中東へ上陸した質感は、しかし暴力と死の気配漂うその場所で、例えばパトリシオ・グスマンの静謐さとは真逆の軋みをあげる。超越でなく拮抗を選び続ける映像美学。 https://t.co/GWu4j5fRBa pic.twitter.com/0PuRIbxpWr
— pherim (@pherim) February 8, 2022
『ローマ法王になる日まで』
初のアメリカ大陸出身である現ローマ法王フランシスコの若き日に焦点を当てた本作は、社会主義政権と軍事独裁がせめぎ合った南米現代史全体をも広く照らし出す。神父らの暗殺へと先鋭化する弾圧と、ドイツ留学や辺境部教会における内面の格闘とがみせる描写の振幅は鮮烈。 pic.twitter.com/A25fZ2DUQM— pherim (@pherim) June 1, 2017
『ドンバス』“Донба́с”🇺🇦
ロシア側フェイクニュース撮影現場に始まる本作の、
紛争下ウクライナで製作された圧倒的解像度。捕虜への市民の私刑、地下シェルターの怨嗟、政治家と宗教団体の賄賂授受etc.
ハイブリッド戦争の諸相をクリミア以降の日常景として活写する、ロズニツァの胆力に震撼する。 pic.twitter.com/IrIGl7qBr2
— pherim (@pherim) May 14, 2022
『メルテム 夏の嵐』
ギリシャ系主人公とアラブ系&アフリカ系からなるフランス人トリオが、レスボス島でシリア青年と交錯する物語は、難民漂着の常態化を背景としつつ若者ゆえの葛藤と甘美さを捉えて巧い。義父の遺伝子講演や、老人の語る渡り鳥の逸話が映す今日を走り抜ける、青春の弾丸的一回性。 pic.twitter.com/nzw7UgTFWj
— pherim (@pherim) June 24, 2020