自分と向き合う 向井真人 【宗教リテラシー向上委員会】

宗教、伝統文化やからだを動かす界隈でよく聞く言葉に「自分と向き合う」がある。このワードを使う文脈としてはこうだ。「坐禅を通して自分と向き合ってみましょう!」「姿勢を正して目をつむり祈る時間をとることで、本当に自分がやりたいことは何か見つめ直してみましょう!」――筆者自身も、坐禅会、ワークショップや法話の中で、何度もこのような話をした記憶がある。

「自分と向き合う」の解釈はさまざまだ。周りから見られているイメージではなくて、私自身の思う本当の自分は何か考える。冷静に私の長所や短所を確認する。日々を忙しく過ごしていてやりたいことも見失ってしまったように感じるが、本当に自分がやりたいことは何か問い詰める。自分と向き合いたいと思う心理とは、輪郭の見えない物事について、できる限りはっきりとさせたい気持ちからやってくるのかもしれない。

「おのれこそおのれのよるべ おのれを措きて誰によるべぞ よく調えしおのれにこそ まこと得がたきよるべぞを獲ん」(友松円諦訳『法句経』160)

仏教は、一切の執着から離れた自立した自己をめざす。しかし私たち生きとし生けるものは欲深いために一切の執着から離れることはとうてい難しい。誰かを愛したり、憎く思ったり、同情したり、悲しんだり、多くの関係性を持ちながら自立している。だからこそ「おれが、おれが」「なぜ私の言ったとおりにしないのか」「こうに決まっている」――このような執着に自分自身も振り回され、周囲をも振り回してしまう。清く、明るく、正しく、直く生きたいと思っていても、なかなか難しい。やりたくてもできない、罪深い、そんなどうしようもない存在が自分なんだ。ダメだなぁと落ち込まず、かといって開き直りもしない。多くの関係性の中にこの私は私として自立した生活を送ることができる。いろいろな巡り合わせによって、私たちはここにいるのだ。ここが私の出発点だ、と見つめ直すことが「自分と向き合う」ではないかと思う。

「自分と向き合う」ことそのものを表現する禅語に「己事究明(こじきゅうめい)」がある。「己」の「事」を「究」めつくして「明」らかにする意だ。この私が等身大で今ここにいることを見つめなさい、とこの禅語は叫んでいる。見つめるにあたり、思考の出発点である私とは一体何かという話になる。そんな私を私としてあらしめるものは何であろうか。パスポートなども持たずに国外で記憶喪失になれば社会の中で自分が何者か証明できないように、私の中には私が私であるという根拠を持たない。この私とは、誰かや何かとの関係性の中に存在できている現象にすぎないのだから。

しかし、この私を究めつくして明らかにしていくと、はっきりしている関係性が浮き上がってくる。私が本当にしたいことや、私の長所短所というものは序の口にすぎない。はっきりしている関係性とは何か。仏教で言えば成仏をめざす私。キリスト教で言えば神の前にいる私であろうか。どれだけ資格を持っていても、勉強ができても、健康でいても、肩書きがあっても、いつかそれらは手放さなければならない。仕事や身体的特徴といった人を定義するものに社会的意義はあれども、この私を本当の意味でははっきりさせないのだ。何も持たずにこの世界に生まれた私たち。歳を重ねるごとに学びや経験を積み、最期の時がやってくる。何も持たずに旅立っていく。だからこそ、人は神仏に祈るのだろう。

向井真人(臨済宗陽岳寺副住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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