「命をかけて、死ぬまで愛し続けます!」
ドラマでそんなセリフを聞いた。自分も含め、そんな言葉に多くの人が多少なりとも感動を覚える。なぜ感動するのかと言えば理由はシンプル。命をかけて愛される経験なんて人生でそうないからである。これは大人になればなるほど分かる。実はドラマの臭いセリフなどは、青春の潤いを忘れた僕たち(25歳なのでまだ忘れていないと思いたい)を癒やす。
「命をかけて」とは何だろう。それはどんなことがその人に起ころうとも、人生を差し出して守ろうとする意味。「死ぬまで」とは何だろう。文字通り、その人の生涯を愛する人にささげることだ。
さて、君の周りにそんな人はいるだろうか。親? 友人? もしいると答えられるなら、この世界で最も幸せな人間だと思う。残念ながら僕にはいない。いや、実はいてほしくないのかもしれない。人間、生きていると支え合うより裏切られる、綺麗な記憶より苦い思い出の方が多い。そんな経験を重ねていくと「信頼すればまた裏切られる」と、人付き合いや自分の人生の可能性を引き算で計算するようになる。
だけど一方で、そんな人が現れてほしいという願いもある。自分の見える部分も、汚い部分も、全部包み込んで「愛してるよ」なんて笑顔で言ってくれる人が一人でもいれば、それだけで明日に光が差し込む。人間って複雑なのよ。
ところで、聖書ではイエスが羊飼いとして言及されている箇所がある。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11)
羊飼いの友人がいる牧師が羊の特徴について語ってくれたことがある。第一に羊は「遠くで見ると綺麗だが、近づくと案外汚く臭い」。第二に「周りの真似をして失敗する」。第三に「とにかく強がる」。
おいおい、人間みたいじゃないか……。聖書は時々(と言ったら怒る人もいるが)、核心を突いてくる。僕たちも自分の姿を見る時、少なくとも僕、福島慎太郎が自分を見る時、カッコはつけるし、綺麗事は言うし、とにかく自分にしか関心がない。考えれば「愛されたい」と願うが、そんな自分は「愛」の意味を分かっていないし、それならば「愛する」こともできないのだと思う。
だけど、そんな迷える子羊である人間に手を差し伸べる人がいると、ボンヘッファーは語る。イエス・キリストという「よい羊飼い」そのものを見ろ、と。ボンヘッファーが強調するのはイエスが「よい羊飼いの一人」なのではなく、「他にこれと並ぶ者なきよい羊飼いそのもの」であるという点である。
大勢の羊飼いの中から「この人いいんじゃない?」ではなく、「この人しか本当にいい羊飼いはいない!」のである。どうしてそんなことが言い切れるのだろう。続けてボンヘッファーは言う。「イエスは自分の羊のために死ぬのだ!」
イエスが十字架にかけられて死んだことは、クリスチャンじゃなくても聞いたことがある。しかし、なぜ十字架にかけられたのだろうか。それは、時代の支配者たちである律法学者や宗教者たちの都合に合わせず、目の前で苦しんでいる人がいれば、とにかく手を差し伸べ続けたからだ。それが明るみになるにつれ、彼らの立場は追いやられるハメになり、最終的に都合が悪くなりイエスは殺されたのだ。
イエス、おそらく殺されることも分かっていた。しかし、それでも痛む人たちの隣に立ち続けていた。なぜか。「よい羊飼い」だったのだ。どれほど羊が汚れていようが包み込み、自分の命が危ぶまれてもなお、今日も明日も羊たちを諦めなかった。
そして2000年が経った今、そのイエスは目に見えずとも今また誰かの手を、あなたの手を握ろうとする。だから、ボンヘッファーは命をかけるキリストの姿を「すべての信仰者の希望」と表現した。
「人生で命をかけて愛し続けてくれる人はいない」と最初に言った。やっぱり、少しだけ訂正させてほしい。このイエスなら今日も僕のことを、君のことを愛してくる気がする。いや、そんなことを考えている間にキリストは命をかけて僕たちをすでに愛してくれているのだろう。ならば、その愛に少しの希望を見出し、明日も生きてみたい。
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。