Q.教会員同士でしばしば論争になり、裁き合っている姿を見るにつけ心が痛みます。何かご意見をお聞かせください。(70代・女性)
本来、裁きは共同体の統治やその理念の源である公平や正義を守り、人を救いに導く包括的、肯定的概念です。しかし質問者はここで、裁きを「論争」としてとらえ、「心が痛む」と述べているので、裁きという出来事を、感情的レベルでとらえておられるようです。
そこで、裁きを怒りの感情と心の傷つきという側面から考えてみたいと思います。
裁きを正当化するための根拠として、冒頭にも述べたように、公平と正義という大義を成就させるための神の義憤であるという考え方があります。この場合、神の裁きとしての怒りは、人々に悔い改めを迫り、再生を促します。
他方、表面的には裁きという形をとっていても、弱さに由来する怒りがあります。この弱さに起因する怒りは、心身の病気や障がいによる記憶力、理解力、判断力の低下にもとづく認知の歪みや過誤によって生ずる怒り、知識、経験、知恵、思慮などの欠如、あるいは無知による怒り、さらには性格的未熟さや不完全さによって、理性が快、不快といった感覚的欲求を抑制できなくなること、つまり、衝動性のコントロールができなくなることなどによる怒りに分けられます。
最後に最も重要なのは、自己中心的で身勝手な裁きであり、怒りです。このような怒りはたとえ裁きという形をとっていても、その背後に自分が神のごとき存在になろうとする欲望が隠されています。こうした傲慢な考えを持っている人が、自らの欲望を遮断されると怒りの感情を表すことが少なくありません。
このように、裁きを伴う怒りの感情の背後には、さまざまな動機や人間としての弱さが隠されています。それ故、熟慮して対応すべきですが、自らも感情的になることなく、内省すると共に、相手方のためにも祈る姿勢が大切であると思います。
ひらやま・まさみ 1938年、東京生まれ。横浜市立大学医学部卒業。東洋英和女学院大学教員を経て、聖学院大学子ども心理学科、同大大学院教授、医療法人財団シロアム会北千住旭クリニック理事長・院長、NPO法人「グリーフ・ケア サポート・プラザ」(自死遺族支援)特別顧問を歴任。精神保健指定医。著書に『精神科医からみた聖書の人間像』(教文館)、共著に『イノチを支える-癒しと救いを求めて』(キリスト新聞社)など。2013年、75歳で逝去。