開かれた何々――そのために必要なことは何か。学校付きチャプレンとして考えさせられている。現代はSNSなどによって、潜んでいた課題が言語化できる時代である。いじめ、貧困、発達障害、性の問題など、複合的状況が、あらゆる疎外感の原因が当事者によって社会に開かれ始めている。教会は、学校教育は、どうすれば「開かれた」ものとなるのか。
学校に勤務していると教員研修を受ける機会に恵まれる。教育の現場に今必要なものを改めて理解する場だ。教育の基本は、生徒の疎外感に寄り添うことだろう。多様化する現代社会の要求に応えるため、教員には種々の知見が必要とされる。一方で、一人の教員の負担を心配する声も聞こえる。
先日、勤務校の教員研修として、LGBTQ当事者より講演を聞く機会があった。興味深いのは、若者のための相談窓口の一つにLINE相談があるということだ。見知らぬ人に電話相談するのは確かにハードルが高い。QRコードを読み取り、短いテキストメッセージでコミュニケーションを取る。スマホ慣れした世代にとって敷居が低い方法だ。世代と性的傾向における他者を理解しようとする姿勢、相談者の「生活の座」への配慮が見られる。
この配慮と姿勢はどこから来るのか。それは当事者としての経験によるのだろう。講演者は性の問題に対して、自分が覚えた違和感やさまざまな経験を話し、誰かへ相談することの難しさを強調した。相談の困難さは疎外感を増すことにつながる。人間が抱える疎外感は本人にすら完全に把握することはできない。だから人は他者を求める。他者との交わりにおいて、自分というものを認識することができるからだ。なればこそ、他者へのアクセスルートは多様であるべきだろう。
この多様さは相談者のみならず、寄り添う側にとっても意味深いものである。人間一人では知識的にも体力的にも精神的にも限界がある。英国の学校では、さまざまな学外への相談窓口が生徒に伝えられていた。それは若者への配慮だけではなく、教員への配慮でもある。一人の教員、一つの学校のみで生徒の疎外感を抱え込まなくてもよいからだ。一つの現場は、より大きな地域社会へと開かれたハブとしての役割も果たせるのだ。
すべての人に助け手が必要である。主なる神は「人が独りでいるのは良くない」と言われ、「助ける者」の必要さ示された。脳裏をよぎるのは教会のことである。教会はともすればこの社会で「独りでいる」のではないか。地域社会に助け手を求めているだろうか。他者なくして、門を開くことはできない。他者なくして、助け手となることはできない。
2013年、カンタベリー大主教着座式、大主教ジャスティン・ウェルビーはカンタベリー大聖堂の門にて1人の少女に迎え入れられた。少女は「どのような自信を持っているか」と問う。「私は十字架につけられたイエス・キリストしか知りません。弱さと恐れの中で、とても震えています」と大主教は答える。少女は「私たちは身を低くして、神のみ前で神の憐れみと力を一緒に求めましょう」と励まし、門は「開かれた」のである。
大主教でさえ、少女の問いかけを助け手として必要としている。神と人々の助けを求めることが、被造物たる世界をつないでいく。大主教と少女との会話は「開かれた教会」を象徴している。「開かれた」学校教育も教会も、まずは謙遜になり、他者に助けてもらうことから始まるのではないだろうか。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。