「手帳」を使わなくなって、どれくらいになるでしょうか。牧師を隠退しようと初めて考えたのは66歳の時。これ以上スケジュールに縛られる生活は嫌だと、その時から手帳を使わないと決めました。それまで40年以上も「能率手帳」というサラリーマンが使っている手帳を愛用していました。
そのころの能率手帳には、1日が朝8時から夜中の12時まで1時間ごとにスケジュールを書き込めるように時間が印刷されていました。当時、「24時間、戦えますか?」のコマーシャルで栄養ドリンクが売られていた時代、その手帳も1日最低16時間は働けと叱咤激励していたのです。その手帳が毎日予定で真っ黒になることに妙に満足感を覚えたものです。まるで「モーレツ牧師」でした。
隠退を決意したものの、地方の無牧の教会から招聘があり、4~5年と期間を決めて赴任することになりました。教会は山峡にあるおだやかな町にあり、毎日の生活はのんびりしており、手帳など必要はありませんでした。しかし、習慣とは恐ろしいもので、結局、生命保険会社から毎年送られてくる手帳を使っていました。その手帳は午前8時から午後5時まで時間が刻まれているだけで、さすが生命保険会社、「働くのは8時間」と健康といのちに配慮したものでした。しかし、それさえ使う必要もないほど予定のない日々で、その後は手帳を持つこともなく、今に至るまでスケジュールに縛られない生活を続けています。
もっとも失敗することもあります。「きのう会合があったのですが」「ゴメン、あすかあさってと勘違いしていました」。そんなことがいまでも時々ありますが……。
河野進牧師の詩集『ぞうきん』(幻冬舎)に「あす」という題の詩があります。
「話したくても あすかあさってに。聞きたくても あすかあさってに。見たくても あすかあさってに。ほしくても あすかあさってに。おこりたくても あすかあさってに。泣きたくても あすかあさってに。あきらめたくても あすかあさってに。まして失望したくても あすかあさってに」
きょうという日は私たちの手の中にあるとしても、しかし「あすかあさって」は神のみ手の中にあるのです。
新しい1年、「あすかあさって」に委ねつつ、きょうという1日を、感謝をもって生きたいと願っています。
もしかして、神様の手帳の中のわたしのページはあと1、2枚かもしれません。もし「あすかあさって」で終わったとしても、それもまた感謝です。
「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます」(詩編4:9)
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』『ふり返れば、そこにイエス』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。