コロナ禍を経て、教会での牧会における「データ」の重要性が再注目されている。米「クリスチャニティ・トゥデイ」紙の記事から抜粋して紹介する。
混乱する世界における正確さの力
イエスはデータを好んだ。データは単に特定の目的のために分析できる事実や情報である。それは何千年もの間、教会生活を形作ってきた。実際、イエスと使徒パウロの両者に、宣教へのアプローチを知らせる人口統計学的、個人的、宗教的なデータの代表例を見ることができる。マタイ9章でのイエスの問答を考えてみよう。
群衆を見ながら、イエスはデータを収集していた。彼は人々のニーズと願望、彼らの弱さと傷を精査していた。それらの情報を分析する中で、深い同情によって、彼らのために行動しようという動機づけを覚えた。イエスに匹敵する洞察力を欠いた使徒パウロでさえ、情報を収集し活用して力強く宣教することができた。
使徒言行録からビリー・グラハム教会、伝道部、伝道特別議長のエド・ステッツァー氏は説明する。パウロはアテネでこう語る。「アテネの人々! あらゆる点で、あなたがたが非常に宗教的であると考えます」。その後、彼らの快楽主義的でストア学派の哲学者を引用する。「パウロは、ある場所では自然について話し、一方では詩について話し、別の場所ではユダヤ人の歴史について話すべきだと、どうやって知ったのだろうか?」ステッツァーは続ける。「彼は人々を知っていたからだ。この2000年をざっと振り返ってみれば、これまでになかった方法で人々を知るためのツールがあり、それらのツールは特筆に値する可能性を持つ」
データの内容
イエスとパウロのように、明確に人々のニーズを見る時、それらを追求しなければならない。なぜか。データは行動を促すからだ。「イエスは彼らの心を知っていた」とステッツァー氏は言う。「彼は彼らが誰であるかを知っていた。リーダーとして、私たちもコミュニティを惹きつけられるように、コミュニティを知る必要がある」
私たちは群衆を見て、イエスのように彼らの心を知ることはできない。しかし、会話と定期的な接触を通じて、人々に奉仕する最善の方法について直感的な感覚を発達させる。平和な時の流れの中で、彼らの目を見る。彼らのフェイスブックの投稿を読む。祈りの課題を書き留める。これら心の琴線に触れるポイントは、私たちに知識を提供し、奉仕する方法を形作る。
しかし、最善の努力にもかかわらず、人々に対する私たちの認識は完全ではない。私たち一人ひとりには偏見と前提がある。人格や気質に現実を上書きさせる。そして、不完全なリーダーとして、人々が誰であるか、彼らが何を必要としているかについて不完全な結論を導き出せるにすぎない。
これが、データの「是正レンズ」が不可欠である理由だ。データは現実に焦点を当てる。それはニュアンスを生み出し、私たちの理解が歪んだり近視眼的である可能性がある場所を明らかにする。
例えば、280文字のツイートに慣れているミレニアル世代は、集中力が長続きしないと想定したとする。説教者が若い家族を引きつけようとする際、その想定が説教の長さを規定し、メッセージを短くするよう促す。しかし、データは別の事実を教えてくれる。最近の「Berna and Gloo」統計によると、ダラス・フォートワース地域、カンザスシティ、コロンブスとその周辺地域、南フロリダの四つの主要地域のミレニアル世代は、ジェネレーションX(1965~1980年生まれの世代)やブーマー世代(ベビーブーマー=1946年~1964年生まれの世代)よりも長い説教を好む。例えば、カンザスシティでは、投票したミレニアル世代の50%が31分以上続いた説教を好むことを示した。ジェネレーションXの38%とブーマーの29%だけが同様のことを言った。
物事を一般化したいという衝動は理解できる。しかし現実的には、会衆のすべての人々の内面の深さを知ることはでないので、個々人について知っていることに基づき、グループについての結論を導くのは当然だ。だが危険なことは、私たちの「知っていること」としている仮定を検討し損ねたり、私たちがそれらの仮定を作っていることを完全に忘れたりすることだ。
情報収集は、これらのバイアスや偏見からくる束縛を解放する力を持っている。国勢調査記録、都市全体のフォーラム、オンライン投票などのツールは、個人的な制限を克服し、人々のより完全で正確な見解を受け入れるのに役立つ。人口統計データを通じて、人種、教育、職業、社会経済的地位、性別などの要因が、他者の見方をいかに巧妙に歪めてしまうかを自問することができる。
データは数学的ではなく個人的なもの
多くの人々は、データとは一連の無味乾燥な番号とスプレッドシートにすぎないと思っている。しかし、データは数学的なものではない。むしろそれは個人的なものなのだ。あなたの会衆に関する情報を収集することは、彼らのニーズを知り、あなたの牧会がそれらを満たしていることを確認するための最も簡単な方法の一つなのだ。
歴史的には、会報、食事を持ち寄る「愛餐会」、祈祷会は、玄関先でのおしゃべりや病院訪問と共に、教会が必要とするアイデアを提供した。実際、17世紀の英ピューリタン教会の指導者だったリチャード・バクスターは、毎週2日間、彼が世話をしている家族を訪問することに専念した。彼らを知り、データを資料化することは、牧会の有効性を高める祝福であると考えた。
インターネットやソーシャルメディアの普及により、データ収集は長時間の会話からコンピューターに移行した。高速記憶装置のデータは、企業やブランドに貴重な洞察を提供し、ターゲット市場が興味を持つ照明器具、寝巻き、髭剃りジェルの種類を正確に特定するのに役立つ。これらの企業にとって、一般的なカテゴリとして「聖職者としての牧師」が何を望むかはもはや重要ではなく、あなたが具体的に何を望んでいるかを学ぶことがはるかに有用だ。
企業が一般向けから個人向けに転換するにつれて、作家で小さな教会の専門家カール・バターズは、「大衆向け放送は特定視聴者向け放送に取って代わった」と指摘している。もちろん、より良いリターンを得たい企業にとっては圧倒的な勝利だ。しかし、それは個人のために良いのだろうか。フィードバックが正確であれば、答えはイエス! 真のニーズを反映した広告、献金、サービスは、企業や個人にとって同様に有益だ。
この変化は、マーケティング担当者が必要状態と呼ぶものを優先し、個々人が特定の瞬間に何を必要とするかに焦点を当てる。例えば、会議の間を駆け上がる中間管理職と、教室と図書館の間を駆け回る学生の両方が、健康的で素早く、食べやすいシンプルな軽食の必要性を共有している。同じ必要状態、二つの非常に異なる人口統計。
あなたの会衆のニーズは何だろうか。あなたとあなたの教会が提供する何が欠けているだろうか。コロナ禍後の世界を考えると、多くの人々が孤独、悲しみ、または大きな変化に直面している可能性が高い。たぶん、高校を卒業したばかりの青年たちであろうと、独身の中年女性であろうと、また別居中に離婚する人々であろうと、デートや恋愛関係はある人々の間では心の最高位にある。同様に、財政のひっ迫は、社会保障を増やそうとしている高齢者によって、また一つの収入で暮らす若い家族によって共有される関心事かもしれない。
これらの共通のニーズを特定できると、牧会やさまざまな物的、人的、金銭的資源をより良く形成することができる。例えば、あなたの周囲の多くは悲しみや絶望が止まらないことに対処している可能性がある。彼らはこの数カ月で、コロナ禍の間に愛する人を失ったり、キャリアの混乱を経験したり、他の人との接触を断っている可能性がある。あなたの会衆のその意識は、あなたの牧会でどのように知らせることが可能だろうか。そのことはあなたの次の説教を形作る可能性を秘めている。小グループのリーダーを訓練し、他の人が喪失と悲しみの道を歩き切るのを助けることができる。あるいは、社会化、手続き、支援をめぐることに源をもつ教会規模での集まりを行う時が訪れたと決意するかもしれない。あなたがその必要性を知った今、それに合致する機会はあなたの創造性がなければできない。
データはルールや規範的なリストではない。代わりに、この情報はあなたの会衆のどこに対処すべきかを明らかにする。多くの教会員の必要性を共有していることを知っている時、時間と労力を無駄にすることがなくなる。あなたの牧する人々が誰であるか、またどこにいるかに応じて、霊的成長につながる肥沃な土地を耕すためにエネルギーを費やす時が来た。イエスとパウロのように、あなたの使命は見るものによって力を与えられ、あなたの思いやりは学ぶことによってかき立てられ、あなたの行動は真理によって動機づけられる。あなたの会衆を知り、あなたが彼らをより深く愛することができるかもしれないと知ってほしい。