7月初めに中国共産党100周年が盛大に祝われた。これまでの功績が称えられ、新型コロナウイルスの猛威さえも完全に克服したことが謳(うた)われた。21世紀はまさに中国の時代であり、中国が邁進していくのだ。そのような勇ましい姿を印象深く、そして鮮明に世界へと提示した。
確かに中国の変遷には目を見張るものがある。おそらくこれからも世界を大きく動かすだろう。しかし一方で、今、都市部の若者たちの間では今までのようなライフスタイルに疑念を抱く者たちが急増しているようだ。いわゆる「寝そべり族」と言われる人たちである。日本では「横たわり族」などとも言われ、SNS上で脚光を浴びている。彼らは今までの世代のように、がむしゃらに働き、さらに豊かな生活と出世を目指すという生き方を捨てようと主張する。もっとスローペースで、ゆったりと自由に、自分の思うままに生きたい。そう主張しつつ、実際に行動に移しているのだという。
中国の都市部の家賃は法外な状態になりつつあり、特に若者たちは疲弊し切っている。このままでは結婚もできず、何のために自分は社会システムの奴隷として生き続けるのか。何のために生きているのか分からない。そのような声が徐々に聞こえてくるようになった。
新型コロナウイルスによる生活様式の変化と、新しい環境への適応が求められたことによって、若者たちは改めて自らの生命の価値について考えさせられることになったのかもしれない。
そのような中、この世代は教会にも救いを求めて足を運んでいる。一時はすべての集会が停止となったが、ポスト・コロナになりつつある今は、コロナ前のような対面式の礼拝や集会が徐々に再開されている。そこに若者たちが集まってきているというのだ。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28)。このイエスの言葉が心に沁みる。今までは「弱さ」を全面的に出すことははばかれるべきことだと思っていた人たちが、ここにきて大胆にも自らの「弱さ」を人前でも曝け出すことをためらわないのだという。
この若者の疲労感とやるせなさは、もしかしたら、日本ではすでに社会現象として露わになっていたものなのかもしれない。それが中国の大都市でも徐々に顕在化しているのか。急激な経済発展と、絶え間ない競争に嫌気を感じ、不可視的な救いを求め、あえぐ機敏な若者たちが、今まさに言葉にならない声を上げている。彼らもまたキリストの安らぎを必要としているのだ。
教会が彼らの居場所となり、彼らを受け入れる場として用いられようとしている。従来の勢いある中国の教会像とはまた少し異なった姿が、今まさに形成されようとしているのかもしれない。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。