夏、それは高校3年となった生徒らにとって、進路を決める季節だ。彼らの進路は、大学進学、専門学校、就職と多岐にわたる。企業からの求人票が公開されるのも7月初頭だ。進路指導室に入れば、ところ狭しとならぶ進学・就職に関する資料が生徒を迎え入れる。
前任校は大学進学希望者しかいなかったため、「学ぶとはどういうことか」「大学生活の意義」について生徒と共に考えてきた。一方、「働く」ことを主題化した記憶は薄い。
働く、労働、仕事──キリスト教の伝統はどのように考え、位置づけるのか。キリスト教教育に関わる一人として、考えなくてはならない。
M・ウェーバーが宗教改革者たちに言及した「職業における召命」という考えは、近代社会にとってなじみやすいものだ。しかし、新約聖書自体はそのような近代的な意味には言及していない。新約における「働き」とはまずイエス・キリストのわざを指す。それは人と神とをつなぐ祭司的なわざでもある。「働き」は、人間的労働ではなく神の働きであり、神の働きは創造のみわざである。
「十戒」は、特に「働き」について、神が休んだように人間にも安息するよう教えている。人間は働き、休むという考えが示唆されている。余暇は自由市民のもの、労働は奴隷のものといったギリシャ的な考えとは違う。聖書は「安息と仕事」を深くつながるものとして考える。
なぜなら神のみ前にこそ、日常の忙しさから離れた安息があるからだ。新約聖書学の碩学A・リチャードソン『仕事と人間』によると、その究極が聖餐式に集中している。「仕事と礼拝との真の関係をより完全に理解するのは、聖なる祭司職としての自らの本質と役割を真に理解するときです」と綴られる。
それゆえ、人間的労働には正義と平和とが求められる。神が自分も他者も赦し、愛してくださった事実が聖餐式という安息の中心だからだ。結果、聖餐という安息に続く労働を通じて出会う他者は「隣人」として現前する。ここに「働くこと」における倫理と、「人間とは何か」という問いかけへの応答がある。
とはいえ、私たちの直面する社会的状況は混迷を極めている。先々代のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、これを予見していた。社会回勅『ラボレム・エクセルセンス』(働くことについて)で、テクノロジー・経済・政治の発展が「前世紀の産業革命に劣らず労働と生産の世界に大きな影響をもたらすであろう」と語る。生産効率が追求された結果、ますます人間は「非人格」的に扱われている。
19世紀後半の重化学工業化(第二次産業革命)、「スマホ」にみられる情報社会化(第三次産業革命)の後に来る第四次産業革命は、過去3回の産業革命とは根本的に異質なものだといわれる。そこでは人間や動物と技術が一体化する。事実、イギリスでは飼い犬と飼い猫に対してマイクロチップの埋め込みが義務化された。もはやSF世界であるが、元来SFの主題の一つは技術社会における「人間とは何か」という問いかけである。
働くこと、人間であること。混迷きわめる社会の中で就職を目指す生徒らには、心と体の日毎の糧(パン)が「人間」のためにあることを伝えたい。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。