Q.イエス・キリストを歴史上の「偉人」として尊敬しますが、神としては信じられません。(20代・男性)
この質問をあえて「キリスト新聞」に投げかけてくるあなたは……イエスを「神」として信じたいけれど、どうしても信じられないあなた、であろうと想像します。
2000年前のエルサレム、この政情不安定な混沌とした都で、十字架上で血だらけ糞尿まみれで殺された名もなき男たちは数多くいたでしょう。まずはその中にナザレ出身のイエスという男が「歴史上」存在した、とあなたは信じられるのですか?
彼が神であるかどうか以前に、「イエス」の実在自体が疑わしいのでは? つまりあなたがイエスを歴史上の偉人として認識している、これ自体が一つの信仰の形です。
そこで次の問題。ではどうすればイエスが神である、すなわちイエスが今も生きていると信じられるのでしょうか?
例えば私たちが生きている誰かを知ろうとする時、その人自身が自らの心を開いて、私たちに直接声をかけてくれない限り、ほとんど何も知ることはできません。実はイエスの臨在を知ることもこれと似ています。イエスご自身が私たちに直接声をかけてくれない限り、イエスが今も生きていることを知るのは不可能。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12:3)
どんなに仲良くなりたくても、その人が心を開いてくれない限り関係性は結べない。だったらこちらから何をしてもすべては徒労なのか。いえ、まずはこちらからの働き掛けがなければ、そもそも何一つ始まらないでしょう。「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカによる福音書11:9)のです。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(同11:13)はずです。
サーファーはどんなにがんばってもよい波を造れない。しかし良い波が来る一瞬のために、常に修練は怠らない。信仰の道も同じ。すべては神にかかっています。そのことを踏まえつつ、いつ声を掛けられてもいいように、私たちは備えるしかないのです。
しおたに・なおや 青山学院大学宗教部長、法学部教授。国際基督教大学教養学部卒業、東京神学大学大学院修士課程修了。大学で教鞭をとる傍ら、社会的な活動として、満期釈放を迎える受刑者への社会生活を送るための教育指導をはじめ、府中刑務所の教誨師として月1度ほど、受刑者への面談や講話を行う経験を持つ。著書に『忘れ物のぬくもり――聖書に学ぶ日々』(女子パウロ会)、青山学院大学の人気授業「キリスト教概論・Q&A」が書籍化された『なんか気分が晴れる言葉をください――聖書が教えてくれる50の生きる知恵』(保育社)など多数。