西表島の炭鉱と、八重山の台湾移民。
観光ガイドでは言及されることのない片隅の集落と、島奥の廃坑が響かせるもの。
10歳で養父に連れられ台湾から移り住んだ橋間良子さんが語る90年という歳月の、どっしりとした重量感。台湾語や八重山方言の入り混じる言葉の温度が、国境と近代の暴力性に対峙する。映画『緑の牢獄』は、生き証人である女性の日常を淡々と映し続ける。その皺(しわ)だらけの細い腕、過去や家族について語る際に見せる複雑な視線と表情、時に空気を割って響く枯れた声音。血の通った生の人間へと肉薄することで、CGや扇情的な音楽演出を多用する凡百のドキュメンタリーにはとうてい不可能な深度へと本作は肉薄する。
“綠色牢籠” “Green Jail”
昭和の時代には炭坑節や「ヨイトマケの唄」にも歌われた九州の炭鉱群がもつ悲史の知名度とは裏腹に、西表炭坑の歴史はいまだ知る人ぞ知る存在だ。この無名性こそ幾重にも八重山へ折り重なった被支配・被差別構造の帰結であり、その発端は明治政府による〝琉球処分〟以前にさかのぼる。琉球王朝による八重山搾取や薩摩藩の進出、大戦下における軍需動員、米軍進駐以降の往来途絶など、一帯の島々に生きる人々が全身に浴びた近代の不条理が、西表島の廃坑群にはなお凝縮する。八重山諸島のみならず、屋久島から台湾へ至る弧状列島全体がここでは共鳴し合う。その意味では、橋間さん宅へ居候する気さくなアメリカ人青年ルイスが「森の奥では今でも50年前の物が嘘みたいに、当時のまま大量に見つかる」と言いながら拾得物の山を見せる場面など、生々しさを通り越しグロテスクとさえ映る。
こうした光景を白日の下へ引き出したのが黃胤毓(コウ・インイク)というひとりの台湾人青年であることは意義深い。例えば戦前の台湾と米軍進駐前の沖縄は、等しく大日本帝国の統治下であったから通航に不自由はなく、日本敗戦後の大陸における国共内戦や沖縄の米国統治といった複雑な情勢下にあっても、台湾沖縄間での人や物の往来は途絶えなかった。戦前の石垣島には台湾人400名が集団移民した開拓村さえ存在したが、日本の敗戦と沖縄の米国支配により、これらの人々は肉親間の往来を遮断された。戦前戦中を日本人として暮らしながら、ある日を境に非日本人とされ交通の自由も奪われ、子や孫には「帰化」を促される苦渋。
ちなみに本編中で橋間良子さんが話す台湾語は、台湾本土で今日耳にするそれより中国語(台湾華語)との距離がずっと大きく、また彼女が話す八重山方言は、日本語としては時にほとんど聴き取れない。黃監督の切り口はこうして生の声音により空間を鋭く伐(か)りとり、時間の襞を際立たせる。そも八重山方言などかつては存在せず、台湾語から屋久島語まで島ごとに語彙や発音の少しずつ異なる言葉の多島海がただ横たわっていた。
“海的彼端” “After Spring, the Tamaki Family…”
黃監督2016年のデビュー長編『海の彼方』は、88歳の玉代おばあを主人公に石垣島への台湾移民、一家三代を描く。『海の彼方』と『緑の牢獄』はこうした時代状況を共有しながらも、40人の曾孫に囲まれる玉代おばあと、わが子との連絡も絶え独居する橋間良子さんの生き様は対極的にも映る。国境により故郷を簒奪するかのような国家の振る舞いに翻弄された人々の、ひと括りにはしがたい多様性。映画ではフォーカスされないものの、西表炭鉱には朝鮮人の強制労働者も多く存在した。こうしたあたりは、筑豊炭田に暮らした人々を描く出色のドキュメンタリー『作兵衛さんと日本を掘る』で語られる炭鉱労働の過酷さにも直に通じる。事実、戦前の台湾島では「西表島へ行けば生きては帰れない」という噂が流れていたという。
この3月には映画の公開に併せ、黃監督による著書『緑の牢獄――沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』(五月書房新社)が出版された。300頁超に及ぶ本書は、映画本編では描かれることのない背景や登場人物たちの裏事情を多く含み、映画の副読本としてこの上なく充実するのに加え、西表炭鉱の全体像を俯瞰するための良ガイドとなっている。
本書と映画本編とで、受ける印象の著しく異なる人物として、橋間おばあを西表へ連れてきた養父、楊添福がいる。西表炭鉱において楊は末端の坑夫たちを束ねる現場監督(斤先人)として働いたためもあり、生前のインタビューにおける坑夫たちへの態度は共感的というよりやや侮蔑的でさえある。そのインタビュー録音は映画にもわずかながら登場するが、モルヒネ中毒となる坑夫たちを若干せせら笑うかのような楊の声音を説明なしに聴く時の違和感は確かに拭いがたい。
また橋間おばあは10歳時に養女として西表へ連れて来られたが、これは楊添福の息子との結婚が前提された「娘婦仔」(シンプア。大陸中国では「童養媳/トンヤンシー」)と呼ばれる慣習によるもので、現代の価値観に照らせば人身売買にも近い側面があったと著書『緑の牢獄』では述べられる。
映画の中盤では、本土へ移住して音信不通となった三男をめぐり橋間おばあの語りが展開する。実はこの三男の地声が、映画の他の場面に一瞬だけ登場する。三男は1980年代に撮られた楊添福のインタビュー録音で通訳の役割を担うのだが、本書を読み終えたあと映画を再見して、この場面における三男の若干の口ごもりに実の祖父へ対するリスペクトからは遠い心情を推し量らずにはいられなかった。もちろん観る側の深読みに過ぎないとしても、それは後年の母・橋間良子さんとの交信途絶、日本人名にこだわる橋間さんの姿勢、『海の彼方』の玉代おばあとのコントラスト、ひいては今日忘却されつつある炭鉱という存在がもつ底無しの昏(くら)さにも通じるように感じられる。
大英帝国心臓部ロンドンに発した産業革命を後ろ支えしたのはスコットランドなど帝国後背地の石炭業であり、かつて炭鉱へ集中した抑圧構造の襞はエネルギー転換後の現在も形と居場所を変え健在する。イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、現代社会におけるアウシュヴィッツ強制収容所の今日性を喝破(下記拙稿「アウシュヴィッツの此岸」にて詳述)したが、同じことは炭鉱労働についても言えるだろう。近代世界が炭鉱窟の深部で目指したむき出しの生をめぐる権力構造は、むしろ情報技術の革新により、この21世紀現在さらに全面化し、地底を離れ完成へと日々近づいている。
【映画評】 『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』 アウシュヴィッツの此岸 Ministry 2018年8月・第38号
さて『緑の牢獄』鑑賞中、筆者の脳裡に想起された映画作品の一つとして、ナチスドイツの悪名高い宣伝相ゲッベルスの秘書を務めた女性の独白に基づく『ゲッベルスと私』がある。この作品ではすでに103歳を迎えた主人公ブルンヒルデ・ポムゼルの語る表情や掌が克明に映し出される。彼女の老化した皺の陰翳を執拗なまでに捉えたその映像の微細さこそが、心身の古層になおとどろく晦渋のうめきを鮮明に響かせる、稀有の構造を『ゲッベルスと私』は宿していた。
これに対し『緑の牢獄』は、語り通す橋間さんの細い二の腕や、午睡する彼女の足裏の深い皺などを仔細に映し出す点で近い質を有しながら、言葉で語られることのない真実を訴える存在として皮膚が前景化することはなく、あくまで橋間さんが生きる世界を構成する一要素に留まって見える。これは『緑の牢獄』において正味の主役は90歳女性の人格ではなく、彼女が生きる世界の全体であることに由来する。すなわち「緑の牢獄」とは西表島の森奥に眠る炭鉱を言うと同時に、白浜集落での独居へと橋間さんを押し込めた宿命そのものをも指している。
こうして観た時、監督・黃胤毓の固有の立ち位置が浮かび上がる。例えば瀬戸内・牛窓の町に暮らす老婆を撮る想田和弘監督作『港町』は『緑の牢獄』との共通項を多くもつものの、両作に似た印象を抱く観客は恐らく少ないだろう。それは想田作品に特徴的な、監督自身の声または身体による場面進行への介入が、黃作品では起こらないからだ。代わりに『緑の牢獄』では、役者の演技とロケ撮影による再現ドラマが用意される。これにより画面は形式的に時空超越の自由を獲得し、そのことが目前を生きる人間のうちに今日廃墟化した炭鉱の過去をあぶり出す本作の目的を可能とする。
ただし筆者個人の感想を言えば、この再現ドラマの数度にわたる挿入は少なからず観客の主体的参与を阻み、作り手の幻視を強制するわりには映像の質感や美術衣装が過剰に清潔、かつ役者の表情は紋切り型で乗り切れない。結果、『港町』終盤において老婆が抱える深淵に呑み込まれるような凄味ある体験が、そこではかえって現象しがたく感じられる。
とはいえ両監督の履歴に鑑みれば、こうした比較自体がアンフェアに過ぎるとは言えるだろう。黃監督の作品系譜にとって長編第2作『緑の牢獄』は、『海の彼方』に始まる《八重山の台湾人》をテーマとする作品シリーズの一階梯を為す計画らしく、その先をみることなしに断ずるのは早計というしかない。次作でどのような世界を切り拓いてくれるのか楽しみだ。
ところで『緑の牢獄』主人公・橋間良子さん宅の離れに間借りするアメリカ人のルイス青年もまた、橋間さんと同じく父に連れられ沖縄へやって来た過去をもつ。映画の後半で彼は西表島を離れるのだが、軽快に越境するその様はまさに黃監督の似姿であり、その軌跡はまた2018年に他界した橋間良子さんの長い旅路を含み込む、炭坑の時代を生き延びた無数の足跡へと重なりゆく。今この瞬間にも西表島の森奥へ木霊する死者の呼び声。いつの時代にも、それらを聴きとれるのは束の間のマレビトたる、私たちだけなのだ。(ライター 藤本徹)
『緑の牢獄』 “綠色牢籠” “Green Jail”
公式サイト:https://green-jail.com/
ポレポレ東中野ほか全国順次公開中。
*本稿に先立つ本紙4月11日付(紙面版)において、映画の細部をめぐり事実誤認を伴う表現がありました。その後、著作『緑の牢獄』にあたり映画を再見する中で誤りに気づきました。お詫びして訂正いたします。
【主要参考文献】
三木健 『聞書西表炭鉱』 三一書房 1982
黄インイク 『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』 黒木夏兒訳 五月書房新社 2021
森崎和江 『まっくら』 三一書房 1977
ジョルジョ・アガンベン 『アウシュヴィッツの残りもの ―アルシーヴと証人』 上村忠男・廣石正和訳 月曜社 2001 (“Quel che resta di Auschwitz. L’archivio e il testimone. Homo sacer. III”Torino: Bollati Boringhieri 1998)
【本稿筆者による黃監督第2作『海の彼方』他をめぐる連続ツイート】
『海の彼方』
石垣島への台湾移民、一家三代を描く。88歳の玉代おばあと、東京中心に活動する音楽家の孫・玉木慎吾との、生活感のズレたやり取りがユーモラス。八重山にパイン・バナナ農法を齎した移民一世、米軍統治以降における移民の処遇など背景描写も豊富。曾孫40人のゴッドマザーあっぱれ。 pic.twitter.com/oByGD7U5Jz— pherim⚓ (@pherim) August 12, 2017
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