アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイ1章1節(参照箇所同書1:1〜17)
福音書の著者は、救い主の系図に血筋家柄の正当性を証明しようとして冒頭に掲げたのではありません。彼が、アブラハムの名をあげるのは、イスラエルの民の先祖であるアブラハムというより、行く所を知らないままに神の示されるまま、約束の地に出て行く、信仰者の姿を見ているのであり、英雄ダビデ王の名を系図にとどめるというより、激しく罪を悔い改めるダビデの信仰を見て、系図の冒頭に名を置いたのです。
しかもまた系図に名をとどめる四人の女たちは、異邦人であり、ユダヤ人の血筋からいえば汚れたものです。しかもタマルは舅のユダと関係を持つのであり、ラハブは娼婦であり、バト・シェバは夫ある身でダビデとの間に子を設けるのです。もう一人の女ルツは異邦の地モアブの出なのです。由緒の正しさ、血筋の正統性という立場から見れば、人間の罪をはらんだ系図というべきです。
救い主イエスは、きれい事の中に生を受けられたのではなく、人間の罪を背負ってお生まれになったことを表わし、かつ救い主は人の罪に責任を取るお方としておいでになったことを意味するものです。