今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
コロサイの信徒への手紙1章24節(参照箇所同書1:24〜29)
一見するとキリストの苦しみが不足でもしているかのようにパウロは思っていると受け取りがちです。彼はコロサイの教会の伝道の困難に触れて言っているのです。コロサイの教会にはそれこそさまざまな人種階級の人たちがいました。ギリシア人に、ユダヤ人、奴隷もいれば自由な身分の者もいるといった状態でした(3章11節)。その上、グノーシスと称される異端まで教会の中に入り込んで、混乱を起こしていたらしいのです(2章8節)。
パウロにとって、教会はキリストの体です。キリストの体が十字架上で傷を受け、いたましい死を遂げられたことが、いままたコロサイの教会にも起こっているかのように感じたと思われます。それは教会がキリストの体としてキリストの苦難を共にしていることでもあります。
しかしながらコロサイの教会は種々雑多な人々の集まりです。中には教会の苦しみを共にしない者もいたのでしょう。パウロは、彼らはキリストの体にしっかりと付いていないと考えました(2章19節)。教会が正しく教会であろうとするなら、彼らもまた教会の苦しみを共にしなければなりません。パウロは彼らが負うべきキリストの体としての苦しみを担おうとしているのです。