キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに越えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
エフェソの信徒への手紙3章18〜19節(参照箇所同書3:14〜19)
パウロはこの言葉を獄中で記していることに注目すべきです(4章1節)。手紙を書くほどの自由はあったでしょうが、他者に対して愛情深くゆとりをもって接する生活はなかったことでしょう。愛ということでは、ほとんどその欠片(かけら)もない日々の中で、これだけ壮大なキリストの愛を思い浮かべることができたのは、彼にとってキリストは知的信仰の対象以上のものであったことをよく証するものです。
彼は、「信仰によってあなたがたの心の内に住まわせ、あなたがたが愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)と不自由な生活の中で祈ります。不自由であればこそ、彼の身にキリストの愛が注がれていることを感じざるを得なかったにちがいないのです。そして、狭い獄屋であればこそキリストの愛の壮大さを思い知ったにちがいないのです。不自由になったところに見えるキリストであり、閉ざされたところで知るキリストがここにあります。
その意味では、この言葉はキリストに対する美辞麗句の類いではありません。パウロの命がかかった信仰の告白というべき言葉であります。